雨中に歩く多田銀山
 平成15年 4月20日(日)
【天候】雨
【同行】単独
多田銀山の明治時代の精錬所の跡


 毎年恒例のヒカゲツツジオフだけれど、夜半からの雨が上がらず、残念ながら中止の憂
き目に。思っていた今まで数々のオフに参加してきたが、中止になったのは唯の1度。「
晴れ男」を自称する小生の面目丸潰れ(笑)。しかし、天気だけは如何ともし難く。そこ
でゆっくり散策したいなと思っていた多田銀山を訪れることに。最近開発された大きな新
興住宅地の直ぐ近くにも関わらず、山を一つ越えると江戸時代へタイムスリップしたよう
な銀山の集落。山歩きではなかったけれど、意外に面白い散歩が出来ました。

 県道川西篠山線を広根で西に折れて銀山川を遡る。峠を抜けると銀山の集落の鳥羽口。
集会所の北側、トイレのある駐車場に車をとめる。

 駐車場のすぐ横が銀山橋で、橋を渡った左手が代官所跡への道。その手前に昭和4年竣
工の先代の銀山橋の欄干が記念に残されてある。他に興福寺だったかにある天邪鬼が灯籠
を支えている形に似た石灯篭もある。文化11年建立の金毘羅宮の石灯籠。祠の中の古い
石仏。

 銀山川に右岸に沿って50m程下ると、代官所跡と云われる広場に出る。何か発掘でも
しているのかブルーシートが地面に被せてある。代官所を彷彿とさせるのは、ホラー映画
の「リング」の貞子が出てきそうな井戸の跡と山際の苔生した石垣のみ。その広場一面に
大根に似た白い小さな花が群れ咲いている。ハクサンハタザオ。そしてウスムラサキの
花はタチツボスミレ。枯れた木の洞の中にも大きな株を作って咲いていたのには驚いた。

 メインロードに戻って金山彦神社方面へ。庭の緑が美しい民家の間を行く。左の坂道は
甘露寺の参道だ。今は無住の浄土宗の寺。参道途中には硫黄島で戦死した地元の名士の立
派な墓。白椿が参道に散っているのが鮮やかである。

 高台に立つ甘露寺の本堂は今はなく、小屋のような建物と古い墓地のみ。寺を辞して暫
く進むと左手に古い道標2基が現れる。一つには「六瀬村木津へ一里、 西、大原野一里」
もう一つには「左、高平 三田道、右、広根 是より万善、ひろね、芝辻」と読めた。

 右に代官所の中門を移築したという門を持つ民家を眺めて、近畿自然歩道に指定されて
いる峠への道を左に過ごす。これは城山に登った時に使った道だ。

 神社へは右の橋を渡る。急斜面につけられた階段を登って境内へ。門を抜けると本殿。
大同2年(807)創建というからいかにも古い。今は山の神のみならず住吉神も合祀さ
れていると説明書きにあった。

 神社の裏手には水香山曠明院神宮寺なる極小さな寺というか祠というか。昔は金山彦神
社の神宮寺であったという。その前から川の左岸に沿って砂利道があって、辿って行けば
青木間歩に出る。ここは中に入って見学できるようになっているので、早速、鉄格子を開
けて中へ入ってみた。

 じっとりと湿った坑道。裸電球がぶら下がる。20m程進むと直角に右に折れ曲がる。ピ
チャピチャと響き渡る音は天井から壁を伝って落ちる漏水。更に20m程進むと行き止まり。
覗くと立坑があるようだったが詳細は不明である。

青木間歩の坑道内部。見学できます

 説明に依れば多田銀山は白亜紀後期、6400万年前の地層に発達したものらしい。含
有量は1トン当たり、金0.2s、銀0.59s、銅20.9s、鉛5.3s、亜鉛28
sだという。

 遊歩道は更に上に向かう。すると岩と岩の隙間があってそれが露天掘りの跡。岩肌をよ
く見れば、いつ頃のものか、ノミの跡やタガネの打ち込み跡らしい痕跡が認められた。

 青木間歩の入口前にベンチがあったのでここで昼食。生憎やや雨脚が強まる。慌てて、
最寄りのヒノキの枝の下に避難する。

 川を渡って車道を北に向かう。川を隔てた右の岩にうがたれた坑道の水抜兼通風穴を見
て、やがて現れる資材置き場の様な建物の横を過ぎると左に向かう道があるが、その先が
日本鉱業の銀鉱山跡である。昭和41年、月産4百トンで生産を開始、最盛期には月産千
トンの産出量を誇ったものの、鉱量枯渇により昭和47年には閉鎖と、その稼働期間は短
かった。その事務所跡には今もコンクリートの石段が残る。その雑草に埋もれた姿が30
年の月日を物語っている。

 赤茶けた崖が左手に見える。鉱山の露頭らしい。道はここで分岐するが、まず直進して
台所間歩、瓢箪間歩へ向かう。これらは豊臣秀吉時代に開発されたそうで、大坂城の台所
を背負うほどの産出量があったので名付けられたのだとか。そういえば瓢箪は秀吉の馬印。
しかしながら、台所間歩は土砂で半分埋まり、瓢箪間歩は立入禁止で残念ながら中には入
れない。

 引き返している時である。左手の沢に傾いて、古い標識があるのに気付く。「久徳寺跡
山中鹿之助一族の墓」とある。ふと見ると一基の墓が竹藪の中にポツンとある。近づくと
摩滅しているが江戸時代は文化年間の建立と読めた。山中鹿之助といえば尼子氏の家臣。
毛利氏に主家が滅ぼされた後、その再興を図ろうと織田方に参じ、上月城に毛利氏を迎え
撃ったが落城し、捕らえられて護送途中に備中高梁付近で斬られたという話がある。その
一族がこの辺りに住まっていたとは面白い。

 今度は先程の露頭横の分岐を右へ向かう。採鉱のエレベータ跡がある。更につづらおれ
の坂道を登り切った先は建設会社の資材置き場のようで、日本鉱業時代の遺物は認められ
なかった。
日本鉱業多田鉱業所跡の鉱石の露頭

 十字路に戻って更に少し北へ向かってみる。細流が右に流れる。元は田圃だったらしい
狭隘な平地が笹に埋もれて右手に現れる。前方に一本松山だろうか三角形の山。やがて、
視界が広がり、田畑が広がる風景。意外に猪名川沿いの丹波街道は近いのだ。

 とって返して銀山の中心へ戻る。左手に見える山は岩の間に松が適度に配され、まるで
一幅の水墨画のようである。折良く道に出てきた地元の小父さんに聞くと「念力岩」と呼
ぶのだそうだ。そういえば、銀山橋のたもとに「念力云々」と書かれていたなと思い出す。

 件の小父さんに明治時代の精錬所跡があると聞いて行ってみる。場所は車をとめた向か
いである。教えられた通りに眺めると、雑木の向こう、くすんだ煉瓦の炉が周囲の風景に
保護色のように溶け込んで立っているのが認められた。明治38年に築造されたが、日露
戦争の為に休止したのだという。高さ5mの炉が数棟。つる植物に埋もれてひっそりと佇
んでいる炉の煉瓦に手を触れ、今日の散歩を締めくくりとした。

 雨に降られてふらっと歩く多田銀山。歴史を辿りながら歩くのもまた良いもの。存外、
充実した散歩でした。



【タイムチャート】
  計測していません



多田銀山のデータ
【所在地】兵庫県川辺郡猪名川町
【標高】
【備考】 東大寺大仏鋳造の為の銅を産出したという古い鉱山です。
豊臣期に大々的に開発された後、江戸時代に最盛期を迎
えました。産出量は銀2.5トン、銅420トン。世帯
数3千、1万5千人の大鉱山町を形成していたといわれ
ます。近年は日本鉱業が銅を採鉱していましたが、採算
が合わず昭和48年に閉山しました。
尚、豊臣の埋蔵金伝説は有名で、今尚、調査している人
がいるとのことです。
【参考】エアリアマップ『北摂の山々』



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