平成10年12月27日(日)
天候: 晴れ
同行: 単独
小学生の頃といえば、もうはるか昔のことになる。だから記憶が定かでないのだが、そ
の頃は四年生になると社会科の授業で、表紙がオレンジ色をした「わたしたちの郷土」と
かいう副読本を使っていたように思う。その中で学んだ豊中市の地勢というものは、南の
平野部に対して北部は小高い丘陵地帯であること。曽根付近は海岸段丘で、それが証拠に
阪急宝塚線は曽根で坂を上ること。更に豊中市の最高峰は「島熊山」なる山(といっても
100m程の丘ですが)であるという事もその時知ったのである。
また、北部には古墳、須恵器の窯跡も多いことを知り、悪友を誘って、自転車で古墳探
しに行った覚えもある。
当時の豊中北部は中国道も無く、地下鉄も延伸されておらず、当然モノレールも走って
いない、竹藪と雑木林の中に住宅が点在していたような記憶がある。今では嘘のようだが、
茅葺きの農家や農耕用の牛もいたのである。
あれから幾星霜といえば大げさだが、豊中の最高点はどうなっているのだろうか?豊中
市の広報誌12月号に掲載された笑福亭仁鶴さんのエッセイも奇しくも島熊山。林立する
住宅、ビル、マンションに囲まれた島熊山を例の如くふらっと訪ねてみた。
豊中を南北に貫くメイン道路の一つ、神崎刀根山線を北上する。天井川の天竺川沿いに
服部緑地を過ぎ、上野坂の手前で千里中央方面へ右折。中国道をくぐると島熊山の阪急バ
ス停。右に豊中不動尊が見えてくる。昭和37年開創の比較的新しいお寺だが、初冬の小
春日和に誘われて年末とは云え、三々五々参拝客が訪れている。水掛け不動さんは意外に
柔和な顔でした。
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左に干支の大絵馬が用意された師走の豊中不動尊 |
箒目がすがすがしい境内をぶらつくとに歌碑がある。
玉かつま 島熊山の夕暮れにひとりか君か 山道(やまじ)越ゆらむ
万葉集に詠まれた島熊山はここだという。(犬飼孝著「万葉の旅」では所在不詳となっ
ています)
詠み人は難波の津から西国街道に出る為に島熊山を越えたのだろうか。箕面の山並みと
千里丘陵に挟まれた地溝を通る旧西国街道からは、島熊山の風光明媚な姿が見えたに違い
ない。
そんな感慨に耽りつつ不動尊の門を出て、信号の有る交差点を右に曲がれば不動尊の裏
手に出、右手に雑木林に囲まれた豊中市立婦人会館への道がある。やや登り勾配の舗装路
を登ると豊中市水道局の管理地。その左を婦人会館の方へ進むと右手に小さな階段がある。
その先の笹の繁る間の踏み跡を数メートル辿ると、ひょっこりと4個のこぶし大の石に囲
まれて四等三角点が埋まっていた。
島熊山の山頂?はほぼ三畳程度の広さ、東側に電波障害対策用の共同アンテナが立って
いる。展望はといえば雑木が茂り余り良くはないが、季節は冬、枝の隙間から箕面連山、
東の千里中央のビル群、西の六甲方面が見渡せる。しかし、里山の緑が残っているのは、
頂上周辺やその南側の府有地と北に見える公団住宅の西側のみ。あとは一切、住宅地に変
貌している。万葉集の世界は今いずこ。笹をざわめかす風の音と鋭い野鳥の声のみが、僅
かながらに往時を偲べるよすがのようであった。
淡い冬日が西に傾き、珍しく青く澄んだ空に飛行機雲が一筋。地元の人であろうか、正
月用の松竹梅の寄せ植えに貼る苔を採っておられた。そういえばもうすぐ正月なのですね。
豊中の超低山訪問記でした。