松尾山〜俄か歴男が関ヶ原

笹尾山の石田三成本陣から関ヶ原。左は南宮山、中央に霞むのは養老山系
右手の黒い山は天満山、その左手が松尾山で、右奥には雪を頂いた鈴鹿の山並みがある

平成27年 1月25日(日)
【天候】晴れ時々曇り
【同行】単独


 身辺の不幸、体調、寒い冬などなんだかんだで、ここのところまたまたテンション上が
らず。新年もまだ山らしい山にも登っていない体たらくだ。何とかせねば...。(^^;;
丁度、折り良くこの日曜は久方ぶりに暖かくなる予想。どこか出張りましょうか。

 いつもこの時期は雪のある山は避けて南側の低山に行くことが多いが、なぜかふと関ヶ
原という地名が頭に浮かんだ。試しに地元の民俗資料館のHPを眺めると、ぐるりと巡る
お勧めコースがあるらしい。三角点のある低山にも登るみたいだ。こりゃ好都合。関ヶ原
といえば雪のイメージがあるが、この暖かさなら心配なかろう。「暦女ならぬにわか暦男
に変身」してそれでは用意してと。

 早めに出発するつもりがやっぱり遅くなって家を出たのは8時過ぎ。幸い渋滞もなく、
10時前には関ヶ原町民俗資料館近くの駐車場に到着する。この辺りはふれあいセンター
やその他の施設が集まっている為か、至る所に広い駐車場があって助かる。(古戦場の主
要ポイントにも駐車場所があって、車でも苦労せず廻れる)

 まずは起点となる民俗資料館を訪れて、コース地図を入手するとともに予備知識を注入
する。民俗資料館は関ヶ原の合戦以外に壬申の乱や中山道の宿場だった面にも焦点を当て
資料展示を行っている。なぜ関ヶ原で天下分け目の戦いが何度も行われるのか、そのおか
れた地政的な意味合いを知るにも、関ヶ原を巡るなら、まず先に立ち寄ることをお勧めす
る。
関ヶ原民俗資料館。まずここで案内図を頂こう
 民俗資料館の北は徳川家康が最初の陣地である桃配山から進出して最終陣地とした所。 首実検場とした所でもあるそうで立派な石碑が建っている。中心部の土塁は豊臣秀吉の軍 師であった竹中半兵衛の子孫である旗本竹中氏が後年整備したという。  最終陣地を後にして、北に向かい、立派な県警の派出所の前を過ぎ、道標に従って西へ 折れる。人家が疎らとなって田畑が広がる。前方やや右手に石田三成の本陣のあった笹尾 山が見える。学校施設のようなのは関ヶ原中学校らしい。その前にこんもりした場所があ って近づくと大きな石碑がある。関ヶ原決戦地とある。揮毫したのは陸相宇垣一成とある。 笹尾山はもう目と鼻の先で矢来や馬返しの柵が巡らされ、高台にはあの三成の「大一大万 大吉」の旗印が翻っている。三成が三顧の礼で迎えた島左近隊と福島正則隊などが激戦を 繰り広げたのであろう。
関ヶ原決戦地碑から笹尾山。中腹に展望台。旗印が見える
奥は伊吹山ドライブウェイが走る伊吹山の前衛
 笹尾山は山といっても北の伊吹山の支脈が降りてきた突端の台地である。「無限時空」 と銘打った緒方良信作のモニュメントがある正面からと、東側の二つの登り口があって、 どちらも展望テラスまでヒメザサの中を5分とはかからない。しかしながら、そこは良く ぞここを選んだと思われるほど陣地の好適地だ。後ろは山。前面は東南が開け、関ヶ原の 決戦場が俯瞰される。家康が陣を敷いた桃配山、背後の南宮山、右手には宇喜田隊や小西 隊が陣した天満山、奥にはこの時、向背明確でない小早川秀秋が篭もった松尾山。更には 養老や雪を頂く鈴鹿の峰々がある。これだけ有利な地形を得れば、誰が見ても負けようが ないはずなのだが、歴史は面白い。  テラスでしばし往時をしのんだ後、山を降りて南西方向にある天満山の高みを目指して 田園の中を歩く。R365を横切り、集落を抜けて見えてきたこんもりした林は神明神社。 その裏手に廻ると、丸に十の字が染め抜かれた幟が白い島津義弘の本陣跡である。最後ま で戦に加わらず、気が付けば孤立無援。家康の眼前を横切るという意表を衝く退却戦は天 晴れだが、その為に血縁の島津豊久を失うという痛手を蒙り、何の為に出陣したかいぶか しく思うが、国主は兄の義久であり、本国の兵を動かせず寡兵たらざるを得なかった為に 自分からは動けなかったのかもしれない。しかしこのときの恨みが明治維新の原動力にな ったという説もあるから歴史は面白い。
島津軍本陣跡
 そこから西へ、田園を進むと5分ほどで開戦地の碑。北天満山と南天満山の間の運動公 園横に小西行長の本陣がある。更に天満山の麓をぐるりと巡る形で南下すると八幡神社の 参道前に出る。林の中を200mくらい歩くだろうか。八幡神社の社と「兒」と染め抜か れた西軍の主力、宇喜田秀家の幟を見る。「兒」は児の旧字。喜多家が児島高徳の後裔と 名乗っている為に旗印に使ったらしいが、秀家は後に捕らえられ八丈島へ流されそこで長 寿を全うする。  神社の前を林道が走っていて、それを道なりに行くと、道は天満山の裾を巡り、やがて 関ヶ原町の水道施設で行き止まりとなる。道を間違えたのか引き返しかけたが、左手に降 りる道があって、その先が藤古川のダム湖にかかる橋である。「熊注意」のおどろおどろ しい看板にびびらされ、橋の先が山道に見えたからこれは少し褌を締めないとと思った矢 先、ぽっかりと新しい車道に飛び出たではないか。「なんだこりゃ」。
藤川台の大谷義継墓への入口
 再び南下。まもなく大谷吉継の墓への道標が目に入る。400m約10分だそうで、こ の辺りの台地を藤川台と呼ぶとある。丸木階段を登ると林の中の1mばかり幅のあるいい 遊歩道である。野鳥も結構多く、時ならぬ闖入者に鳴き交わすのか喧しい。やがて十字路。 右に10mも行けば奥まった斜面にさほど大きくない五輪塔が一基ともう一つ墓碑がある。 右の五輪塔が吉継、左が介錯した湯浅五助隆貞のものという。吉継はハンセン氏病を患っ ており、輿に乗って出処進退したという。ある茶会で吉継の喫した後の茶碗に誰も口をつ けなかったところ、三成は平然と口をつけ喫茶したので、吉継が感激し、以来、肝胆相照 らす中になったという逸話がある。その義をもって参戦し、かねて疑っていた小早川秀秋 の陣する松尾山が良く見える藤川台に陣取り、寡兵良く、十倍の秀秋勢を三度撃退したが、 脇坂勢などに腹背を突かれついに自刃したと伝わる。確かに墓から5分ほどの陣跡からは 松尾山の秀秋の幟が視認できる。因みに関ヶ原に墓がある大名は大谷吉継のみである。
大谷義継墓の五輪塔。花が手向けられていた
 大谷吉継陣跡は高さ1m程度の小さな碑があるのみ。そこから尾根上をおよそ50m。 松尾山眺望地があり、タカノツメの大木下にテーブルが設置されて南向きで暖かい。新幹 線に旧東海道線、名神高速道が平行して走り、電車が通ればうるさいが、それも愛嬌。こ こで弁当を広げる。一口食べたら、有線放送だろうか、正午の合図が聞こえてきた。
義継陣跡から松尾山。手前からJR東海道線、中山道、R21
東海道新幹線、名神高速道が走り、現在でも交通の要所だ
 中山道へと道標に従って下るが道の途中に伐採枝が積み上げてあって歩けない。右に迂 回して斜面の緩い部分を選んで最後は少々飛び降りた。若宮神社の摂社の小祠の裏、鎮ま る神の静寂を少々乱したかもしれない。とはいえ、参道を横切る東海道線に比べたら静か なものだろう。(笑) その東海道線の踏切を渡って石段を下ると石鳥居。中山道との出合 である山中集落である。
中山道山中集落あたりの風景
いかにも街道筋という落ち着いた雰囲気がある
 次はいよいよ展望地から眺めた松尾山だ。まずはその麓の脇坂安治の陣跡を探さねばな らない。案内図を広げ東に向かう。「ここから中山道」と刻まれた関ヶ原町の石標を見て 更に東へと辿るが、それらしい案内がない。その内に藤古川に架かる橋まで来てしまう。 一寸行き過ぎたかなと後ろを振り返ると、南へ向かう生活道があった。(橋を渡ってもっ と東へ向かうと帰路に利用した道に出て道標がある)  道は次第に川から離れ、新幹線の高架を潜ると山裾のT字路。左に折れて道なりにいく と今度は名神高速道の高架があって、まもなく賤ヶ岳七本槍の一員の癖に寝返った脇坂安 治の本陣跡が見つかる。やや荒れた疎林の湿った感じで、あまり雰囲気のいい場所ではな い。しかもすぐに見つかると思っていた松尾山の登山口がない。案内図からみて本陣のす ぐ先だろうと考えていたが甘かったようだ。南へ向かう地道があるので、とりあえず山懐 に入らねばとそれを辿ると急に工事中の広い車道に飛び出した。もう南側は低い山で、山 裾を車道に沿って流れているのが黒血川らしい。血というから、関ヶ原の戦いの将兵の血 で川の水がさぞや黒く染まったように見えたのかと思いきや、壬申の乱が名の由来だそう だ。が、そのおどろおどろしい名前とは正反対に、何の変哲もないコンクリート護岸の川 だ。とりあえず川を渡る橋がないものかと左折して200mばかり道路を行くと、新しい コンクリート橋がある。奥には違い鎌が描かれた黄色い幟が木立の陰にちらちら揺れてい るのが目に入った。小早川秀秋の旗印だ。これに違いない。橋を渡ると案内図にもある駐 車場で2台の車。先客がいるようである。  山頂まで1.4km40分の道標が立つ。最初はすこし暗いヒノキ林の中のじめっとした 林道を歩くが、左に大きくカーブすると葉の落ちた雑木が主体の林となってにわかに明る くなる。林道なので傾斜も緩く、運動不足の身には相応しい。左下から荒れた道が合わさ り、関ヶ原町の左行き止まりの標識が現れると、やがて切通しに出て、山頂へは直角に別 れた緩い尾根通しの道に変わる。さっきまでの林道ほど広くはないがこちらも一間近くあ るいい道だ。と思ったら東海自然歩道の一部に指定され、鉄塔巡視路にも当たるのだから 当然か。落ち葉の目立ついい山道である。  小さなピークを乗っ越して、すぐに現れる山の神神社の鎮座する左手の高みの脇を巻き ながら西に西にと多少のアップダウンはあるものの緩い尾根を進む。右手に沢の源頭のえ ぐれた斜面を見る頃、左手に松尾山の頂が見えてくる。斜面には雪がへばりついて残って いる。その横を急斜面につけられた段差の大きい丸木階段で20mほど登れば、思いがけ ず広い松尾山の山頂で、平面の台地に東屋とベンチにテーブルが幾つか用意されている。 そのうちの一つで先着の男女3名が休憩中であった。
松尾山山頂の山城跡
土塁跡が残り、右手奥に三角点が見える
松尾山の二等三角点。上段の写真の右手にあたる
 三角点はその男女グループのすぐ横にある。風雨で土砂が流されたのだろう、標石が結 構飛び出しているから、昔はもっと標高があったのかもしれない。(笑)    それをカメラに収める時に話を交わしたのだが、ジモティとばかり思っていたのが、は るばる東京から来られた方々だという。もう一つの登山口である南麓の平井から登ってき たというがハイカー風の姿ではない。歴史好きの好事家の集まりなのか、それとも城郭を 趣味にしている方々なのかは聞き漏らした。というのは松尾山城は西美濃付近最大の山城 の遺構だそうで、確かに周囲の土塁が残っており、南の平井からの道の横の尾根も人為的 な平面だ。先ほどの沢の源頭のような地形も人為的な堀切と土橋なのかもしれない。  ところで関ヶ原盆地が一望に納められる山頂からの眺望は、分岐ですれ違ったハイカー から聞いた通り絶佳で、今まで眺望に恵まれなかっただけにまた一入である。正面には昼 食を摂った大谷吉継の本陣、更に天満山から三成の本陣笹尾山。家康のいる桃配山。東軍 西軍各隊の布陣や出処進退が手に取るように分かる。その奥には伊吹山ドライブウェイの 走る山並み、右手遠くは揖斐川の流れに沿って並ぶ池田山塊。美濃赤坂の金生山付近の石 灰岩採取地まで眺められる。しかし何よりも左手奥の白雪に包まれた伊吹山が、南から日 の光を浴びて誠に神々しい。小早川秀秋もここに立って、眼下の形勢を観望していたのだ ろうか?まあ目は下界の様子を見、耳は喊声を聞いてはいても、大筒一発に驚かされて寝 返った程度の凡将だから、どっちに着こうか保身のことばかり考えていたのであろうが。  お茶で一服した後、下山にかかる。ぬかるんだ道に鹿ならぬヤマドリの足跡がくっきり 残っていたのが印象的であった。  黒血川の橋を渡るとすぐに藤古川の行き当たる。説明版があってゲンジボタルが有名ら しく、梅雨時には乱舞するそうだ。その左岸沿いに名神高速、ついで新幹線の高架をくぐ って井上神社への案内に従って北へ向かう。途中、竹筒で導かれた水場があったが名は忘 れた。  Y字分岐があって右の竹林の小道が風情があるのでそちらを選択する。竹林の向こうか らジモティのおばあさんが手押し車を押してやってくる。「ようお越し」と一声。挨拶を 返す。竹林から抜けると民家の間の狭いコンクリート道で、左手に由緒ありそうな建物を 見えてくるとそれが古代の三大関所の一つ不破関の跡だった。  民家に囲まれた中に別邸風の典雅な建物と南側に碑が並んだ庭園風の小さな広場がある。 往古には藤古川の要害を利用して数万坪の規模があったという。関というよりも畿内を守 る砦といった方がいいかもしれない。 「秋風や 藪の畠も 不破の関」芭蕉  中山道の向かいに資料館があるが今回はパス。関ヶ原町の中心へと向かう。旧中山道を 歩いていると関ヶ原が宿場町であったことが良く分かる。古い風情を残した民家が多く、 新興住宅地のあの何とはなく軽佻なイメージが皆無なのだ。ただ、人通りは少なく、空家 が散見され、中には朽ちるに任せたような建物があるのが残念である。
西首塚。ケヤキの大木が目印
 福島正則の陣跡もパスするうちに自然とR21に押し出されてしまった。途端に喧騒に 包まれた気分である。しばらくするとケヤキらしい大木と祠が二つが目に付いた。民家と の境目もなく、街中によくある地蔵堂かと思ったらそれが西首塚なのだった。車がひっき りなしの国道沿いでは戦死者もおちおち眠っていられないだろう。(笑) ともあれベンチ も置かれているので一服することにする。シーチキンマヨのお握りをパクリ。  小腹の空きも治まったところで往きに車で通った交差点を左折し、JR東海道線を高架 で越えた先の、関ヶ原製作所の北で街並みに紛れる。5分も歩けば資料館であった。
徳川家康最終陣地跡。ここで首実検をしたという
 駐車場に戻って一息入れる。平地が主体といえ、にわか暦男、久しぶりによく歩いた。 山と絡めてこういう歴史探訪もなかなかいいものだ。持参した甘夏みかんが美味い。  首実検の首のこびりついた土や血を洗った井戸があるという東首塚にも立ち寄る。帰り 際にたまたま通りかかったのだが、こちらは敷地も広く土塀に丹塗りの門まであり立派な ものである。二匹の猫がのんびり日向ぼっこがてらこちらを眺めている。風もなく久しぶ りに穏やかな冬日。まもなく立春である。
【タイムチャート】
08:05自宅発
09:50〜09:55関ヶ原ふれあいセンター横駐車場(駐車地)
10:00〜10:25関ヶ原町歴史民俗資料館
10:37〜10:38関ヶ原決戦地碑
10:45〜10:52笹尾山(石田三成本陣跡)
11:05〜11:06
島津義弘本陣跡
11:11開戦地碑
11:15〜11:16北天満山(小西行長本陣跡)
11:28〜11:30 南天満山(宇喜田秀家本陣跡)
11:47〜11:50大谷吉継墓
11:55大谷吉継本陣跡
11:56〜12:10松尾山眺望地(昼食)
12:20 中山道出合
12:40脇坂安治本陣跡
12:46〜12:48松尾山松尾登山口
13:20〜13:35松尾山(293.0m 三等三角点『溝口』)
13:58松尾山松尾登山口
14:12不破関跡
14:25〜14:32 西首塚
14:42〜14:44徳川家康最終本陣跡
14:46 関ヶ原ふれあいセンター横駐車場(駐車地)


■今回のルートはこちら


松尾山のデータ
【所在地】岐阜県不破郡関ヶ原町
【標高】293.0m(三等三角点『溝口』)
【備考】 関ヶ原古戦場の南にある低山ですが、中山道、北国街道
の追分である関ヶ原付近が一望され、山頂には西美濃最
大の山城跡が残ります。関ヶ原の戦いの際は、西軍を寝
返った小早川秀秋麾下1万5千の軍勢が形勢を観望して
いました。
【参考】
国土地理院電子地図



松尾山から北方、関ヶ原を一望する。往時は旗指物が林立したのだろうか。伊吹山が真っ白だった

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