生まれて初めての入院生活は唐突に〜網膜剥離を患って〜
 
平成23年 4月 16日(土)
天候:くもり
主は無くとも健気に咲いたイカリソウ



 「上を見て下さい」「右を見て下さい」「次は下を見て」。検査機器を覗く眼科医のリ
ズミカルだった声がにわかに止まる。やがて機器から眼を放す眼科医は沈んだ声で宣告し
た。
「網膜剥離が起きています。紹介状を書きますから明日にでもすぐに行って下さい。
どちらの病院にしますか?」
まさかとは思ったが、心の片隅にひょっとしてという意識があったのか、宣告されても意
外に心は冷静だった。それより「穿孔だけならここでも日帰り治療が可能ですが、この状
態は手術でしか治す術はありません。入院が必要です」の言葉の方が耳に重かった。入院。
恥ずかしながら生まれて初めてなのである。

 思えば予兆は3週間近く前にあった。会社でミーティングを終えて昼食に行こうと顔の
向きを変えた時、突然、右目の中に真っ黒な毛糸様のものが数本浮かんで揺らめいたので
ある。ただ、それは1時間位で消え、次いで砂嵐に舞う砂のように細かい粒子が霞となっ
て視界を遮った。右目の視力はなくなり、流石にこれはおかしいと感じた。今から思えば
硝子体が網膜を引っ張ってそこに裂孔が生じ、しかも少量の出血があったのであろう。本
来ならこの時点で直ちに眼科医の門を叩くべきだったろうが、そこは日本人の常、一寸様
子を見ようということになる。しかも日が経つにつれ霞が薄らいでいったのが先延ばしの
安易な考えに力を与えたことは否めない。そしてちょうど1週間後に東北で起きた未曽有
の大震災に意を奪われ、加うるに父の一周忌も控えていたこととて、早期受診の機会を逸
してしまったのである。

 その後、少々鬱陶しかったが何ということもなく過ぎ、最初の変事から2週間が過ぎよ
うとした頃だったか。夜、いつものように風呂に入っていると、右の隅にふと何かしらが
動く気配を感じた。しかしそちらを見ても何物もない。こんなことが2、3日続いた後、
ついに看過できない事態を迎える。右目の視界のごく下の部分に黒灰色のカーテン様の影
が現れ始めたのである。ことここに至っては、本来、オプティミストを自認する自分も、
ひょっとしたらあれかと悲観的な思いを抱かざるを得なくなった。

 翌日、朝、重い足取りで会社近くの眼科医へ出向く。連休明けで混んだロビーで待たさ
れること1時間。まだ不惑前後の開業医は検眼を終えた後の診察で、先のように早急な手
術と10日から2週間の入院が必要と告げたのである。

 翌日、教示された病院の内、自宅から比較的便利なので選んだ隣県の県立病院への紹介
状を携えて行く。9時前に行ったのだが、初めて名を呼ばれたのは10時過ぎだったろう
か。まずは検眼に加えて検尿、採血、血圧、X線に心電図。この後、昼食を挟んで幾つも
検査を受けることになる。なんと身長、体重測定まであった。

 何度も点眼されたのは散瞳薬だろう。その間にも家族を早急に呼び寄せるように言われ、
日頃、通院している医者の内科的所見を入手せよと矢継ぎ早にいわれる。こんなハプニン
グもあった。家人と共にロビーのシートで名前を呼ばれるのを待っていると、突然、眼鏡
の右目のレンズが枠から外れてポロリと転がった。単にレンズ枠のネジが緩んだからに過
ぎないのだけれど、病んでいるのは右眼ということもあって、何たる偶然、何たる不吉と
思わざるを得ない。後刻、入院生活の心得の説明を受けている時、看護師さんにこの話を
披露すると、「眼鏡が身代わりしてくれたんですよ」と励ましてくれるのだった。

 午後からは主に画像撮影。この画像撮影が結構疲れるのだ。患部を撮る為に左下なら左
下に思いきり目を寄せてじっとしていなくてはならず、眼筋に力が入って疲労する。しか
もいい画像が撮れないとやり直し。やっと3時頃だったか、剥離部分の眼底画像を見せら
れて、明日の手術時刻と執刀者を告げられ、今日の検査は終了したのである。

 案内された病室は8Fの東病棟。4人部屋の窓際である。荷物整理しているとカンファ
レンスルームへ呼ばれる。明日の手術の説明があり、ことここに至って一番の恐怖であっ
た「針とか目の前に来るのが分かりますか?」を問うてみる。「明かりが眩しくて分から
ないでしょう」にひとまず安堵。続いて手術承諾書にサインし、入院のしおりを渡されて
病室に戻る。入院を予想して歯磨きセットとタオル、ワンセグテレビ付きラジオや文庫本
を持参してきていたが、下着や石鹸、食事道具などは家族に頼まざるを得ない。明日、再
度来る時に持参を家人に頼む。こうして生まれて初めての入院生活が始まった。当直の看
護師さんから左手首にIDと名前、生年月日を印字したリストバンドを装着してもらって、
入院生活の話を聞いて間もなく、「メリーさんの羊」のメロディが廊下から流れてくる。
病院食の配膳だ。このメロディ、結構、耳につく。退院した今でも耳の奥から...。(笑)
この時の夕食は何だったろうブリの照り焼きだったか。

 慣れないベッドで輾転。明日の今頃はどうなっているのだろうか。未経験の不安で眠れ
ない長い夜を過ごす。それでもいつの間にかうとうとしていたようで、目覚めると窓の向
こうはもう朝の薄明りが街並みを鮮明にさせつつあった。

 素人だからよく理解できていないが手術の大要はこうらしい。硝子体手術をすると往々
にして白内障になることから、最初に水晶体にメスを入れ、内部を超音波で粉々にして除
去した後に人工レンズに交換。今回レンズの度数は左目と同じにしてもらうことになって
いる。ついで本命の網膜剥離を修復する手術となる。眼球に三か所、管を通す孔を作ると
いう。硝子体を抜くのと水やガスを入れるのに1つ。さらに執刀機器を挿入するのに一つ
と、照明用のライト(執刀医がシャンデリアと呼んでいたのはこれのことか)用に一つ。
硝子体を取り除き、網膜を復帰させた後にレーザーで焼いて瘢痕凝固させ、最後にガスを
封入して網膜を内面から圧着させる支援をさせるとのことだ。聞くだにおぞましい限りで
あるが、事ここに至ってはもう逃れようもない。

 手術開始は10:30である。朝食は定刻8:00普段通りだ。でも水分は手術の2時
間前に禁止となる。そしてトイレに行って排泄物は確実に出しておく。その間にも点滴の
管を左腕に準備され、散瞳用の点眼薬を定期的に処方され、手術する眼の方の手の甲には
印をつけられる。腕時計など金物は取り外さねばならない。勿論、手術着姿である。

 定刻を若干遅れて迎えに来た看護師に車椅子に乗るように促される。母親の車椅子を押
すことはあるが、押されるのは初めてだ。専用エレベータで手術室の階へ降ろされる。手
術室前で待たされること10分。その間、気さくな看護師が気を紛らわせてくれるが、断
罪前の囚人の思いの万分の一はこんな感じであろうかと思う。ふと気づくと自分の前に施
術されて眼帯姿の初老の女性患者が車椅子で出てきた。手術終了の人が羨ましい。いよい
よだと思うと、先程、看護師が言っていた、眼球には注射で麻酔するけれど麻酔の目薬で
痛くないとは本当だろうか。その針の先が見えたらどうしようなどという思いが沸々とし
てきて不安を掻き立てる。と同時に命まで取られるものかという正反対の居直りの気持ち
も不意に湧いてきて、気持ちが左右に揺れているのがわかる。

 手術室には二台の手術台があり、患者二人が同時進行で手術できるようになっている。
自分は入口向かって右の台に寝かされた。名前と手術される方の眼を自ら申告させられ、
クシャミや咳が出そうになったら事前にくれぐれも申告せよと注意される。するとおもむ
ろに目の上をガーゼで目隠しされ、右目の部分だけ鋏で切り取られ穴をあけられた。次い
で判然とはしないが、瞼を開けたままに固定する機器が取り付けられたようだ。麻酔の点
眼薬の効き目と、真上から照らされたライトが明るく、何が近づいてくるのか皆目わから
ないのが幸いして、いつの間にか眼球の麻酔注射は終わったようだ。お蔭で術中は終始痛
みを感じることはなかったけれど、唯一、硝子体を排除する為や眼球内を照射するための
ライト挿入用の管を通す際に、少々圧痛感があった。多分、眼筋が圧迫されたからと思わ
れる。だが、気持ち悪さといったら尋常じゃない。グルグルとプロペラみたいな器具が回
転して近づいてくるのと、水を注入される感触がある。局所麻酔であるから、頭上で飛び
交う執刀者達の声も良く聞こえ、状況に一喜一憂することになる。白内障の手術も同時に
行われたのだが、折りたたまれたレンズが水晶体内で広がる時、これは綺麗だった。キラ
キラとした多面体の水晶が目の前にバァーと広がるといえば想像していただけるだろうか。
これから更に硝子体を除去される身にとって、鑑賞している余裕はとてもないが、とにか
く綺麗だったことは鮮明に今も覚えている。

 1時間もじっとしていられるだろうか。万一、急に尿意や便意を催したら...。くし
ゃみやせきが出そうになったら...などと不安材料は幾つもあったが、思えば手術時間
は1時間と少し。あっという間に終わったような、長かったような。執刀者の「ガス注入」
の声で終了間近であることを知りホッとする。続いて「予定通り行きましたよ』の声とと
もに肩を叩かれて安堵は深まり、眼帯をされた後に車椅子に戻された。この後、病室に帰
るとまもなく、他の患者より20分ほど遅い昼食であった。

 病室に帰ってきて2時間ほどが経過する。麻酔が切れてきたのだろうか。眼がゴロゴロ
と痛い。ちょうど流行性結膜炎、所謂「流行り眼」に罹った時のようだ。眼球も腫れてい
るに違いない。止めどなく涙が出る。それが涙腺を通って鼻腔へ。まるで鼻の右側だけ花
粉症に罹ったような按配だ。ゴミ籠は見る見るティッシュの山になっていく。我慢せずに
痛かったら鎮痛剤処方しますからという看護師さんの言葉に甘えて一錠所望する。だいぶ
楽になった。

 入院生活は眼球に入れたガスに剥離部分を補強させる為に始終俯きの姿勢を取らねばな
らない。もっとも術後の経過時間によって徐々に俯き時間の制限が緩められるけれど、基
本的には俯きの生活を余儀なくされる。これはつらい。いみじくも最初に受診した眼科医
が最後に漏らした「手術よりむしろその後の入院生活の方がつらいでしょう」の言葉が蘇
る。眼がゴロゴロし、散瞳しているから見舞いにもらったパズル雑誌や読書も長続きしな
い。遅々として時間が進まぬのである。唯一、携帯用のワンセグTVは俯きながら視聴出
来るので大いに有効だった。(お蔭でTV通になった。朝の『はぐれ刑事純情派』昼から
の『相棒』の再放送が楽しみであった)この間、定時の診察と共に散瞳用やステロイド、
抗生物質の目薬を4種、4回定時に差すのであるが、こんなことがあった。ある時、幾ら
目薬を差しても目の上で流れてしまうのである。右目が見えていないからだろうかと焦る
もふと気がついて愕然とした。なんと眼鏡をしたまま目薬を差そうとしていたのである。
それも一度ならず二度までも。大木こだまひびきの漫才に出てきそうな大ボケだが、反面、
自分もヤキが回ったものだと忸怩たるものがあるの事実である。

 入院患者への診察は眼科部長の回診が週二回に担当医の診察が毎早朝あり、その他に別
の眼科医の診察が不定期にある。術部の圧着状況を確認するのが主だが、眼圧も調べてく
れる。20以上が異常ということだが、自分の場合は12〜17の範囲で、剥離部分の圧
着状況も順調に回復しているということであった。また、術後一週間毎に視力ほかの検査
がある。一週目に矯正視力0.7だったものが二週目には1.0まで回復しているようだ。
但し、強烈に散瞳しているので針の孔から覗くように細工してもらった上での話で、それ
がなければボヤッとしてよく見えない。他には視野の検査。これは覗いた暗野に小さな閃
光が見えたら手元のスイッチを押すというもの。OCTとかいう眼底断層写真を撮影する
というものもあった。

 こんな入院生活術も経過時間に従って徐々に自由度を増す。二日目だったかシャワーが
許され、眼帯も簡易なもの代えられる。最初は看護師さんが行ってくれていた点眼も7日
目くらいに自分でするようになると、眼帯も取ってよくなり、入浴洗髪もOKとなる。風
呂は週3回、自分の場合は月水金だった。但し、まだうつぶせ寝は欠かせない。しかし寝
ている間に自然に仰向いてしまっているようで、深夜、巡回の看護師さんに何度か注意さ
れてしまう。

 それにしても看護師さんの仕事は大変な仕事だ。大体、先に書いたように、眼帯が取れ
るまでは、目薬も看護師さんが差してくれるのだ。それも4種の目薬を5分毎に差しに来
てくれる。看護師さんに付いてくる少々痴呆気味の車椅子の小母さんの相手もしつつ、食
事の配膳や洗髪までも!(最初の一回は眼に入ったらいけないので洗髪してくれるのだ!)
加うるに自分のような不良素行の患者のストレス発散の為の愚痴まで聞いてくれて...。
「今の時期で良かったよ。夏だったら暑くて堪らないもの」
確かに...。涙ぐましい活躍に脱帽!

 このように自由度は増えていくけれど、眼内のガスは遅々として引いてくれない。当初、
10日程度と踏んでいたのであるが、一週間後でようやく半分、二週間近く経ってもまだ
15%程度残っている。しかも目の前でゆらゆら水面みたいなものが揺れて、四六時中目
の前に事実を突き付けられているのも同様だから一刻も忘れもできず、会社もそろそろ気
になるしで、これには何度も気分が落ち込んだ。毎日ある診察でも診察医は退院時期を明
言してくれない。いつまで続く泥濘ぞ。体質がおかしいのではないだろうかなどとあらぬ
思いも湧いてくる。ましてや後から手術した隣のベッドの人が羨ましくも先に退院してい
ったとあっては。体もなまるので気散じになればと午前と午後に1回ずつ、病室のある8
FからB1まで階段を往復することにしたが、看護師さんに話すと駄目出しを食らってし
まう始末には嗚呼というしかない。

 が、そんな気持ちが通じてか、さしものガスもゆっくりだが抜けて行ってくれ、二週間
を過ぎると俯けば下に小さな輪が出来るまでになる。それが眼に見えて小さくなっていき、
15日目の夕刻には小さな輪っかだったのが泡のように消えたり現れたりしはじめる。こ
の時点で診察医に退院時期を確認し、ようやく週明けに退院OKの言質をもらう。ほっと
すると同時に妙な脱力感。翌日の朝にはガスは抜け、最後の泡も完全に消えたのである。

 こうして20日にわたる生まれて初めての入院生活も終わった。けれど退院してもまだ
無罪放免とはいかないのだった。一週間後(術後ほぼ1ヶ月だ)には検査がある。入院中
はサンドールの他に、アトロピンという毒草のハシリドコロにも含まれるアルカロイド系
の散瞳薬を点眼していた為に、右眼は散瞳しっぱなしで、晴れた戸外は眩しいことこの上
ない。道を歩くのも奇異な感じで、何だか気分が悪くなるのである。三週間近い安静生活
で体がなまっていて筋力が衰えていることも一因かもしれない。人間が得る情報の9割は
視覚からといわれる部分が不調なのだからとにかく気分が晴れない。就寝も最初から仰向
けに寝るな、横向きでと注意を言い渡され、デーンと大の字にもなれず、しかもアルコー
ルは当面禁止で強い運動も駄目と来ているから何をかいわんや。しばらくは再発に怯えな
がらの生活である。

 こんな散々な目に遭わせてくれる網膜剥離ではあるが、健康の有難さを考えるいい機会
を与えてくれたことや、統計によれば年間1万人に1人の割合で発症するという滅多に味
わえないことを体験させてくれたことで了とすべきかもしれない。そして、医学の進歩の
恩恵を受けられる環境にあって本当に良かったとの感が今更ながらしみじみと湧いてくる。
それにしても二度と体験したくないことも事実である。とはいえ、それは地震のように大
きな前触れもなく唐突にやってくる。明日、いや数分後かもしれないのである。


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