若丹や芦生に行く際に利用するのが府道19号線だ。日吉町の殿田から北東に進んで、
佐々江付近で分かれて神楽坂トンネルで美山町へと北上するのだが、この神楽坂が以前か
ら気になっていた。古いエアリアマップを見ると、西隣の海老坂ともども鯖街道の重要な
峠の一つであったらしいからである。なかなか訪れる機会もなかったけれど、この日曜、
天気も良いのでドライブがてら出かけてみることにする。
府道19号線には海老谷や当面の目標である玉岩地蔵堂の標識はとくにない。この辺り
だろうと当たりをつけた四ツ谷付近でスピードを緩めると、催し物の準備なのか広場に地
元の方が数名屯している。最寄りの小父さんに地蔵堂への道筋について尋ねる。するとそ
この道を集落に入って行けばよいとのこと。一昨日の秋分の日は参詣客で随分賑わったの
だと時期を失したのを残念がってくれたが、もとよりこちらは地蔵尊行きが本目的ではな
い。(笑)
指示に従って少し戻り、北に見える山際へ向かう。ちょうど四ツ谷八景の説明看板の前
の道で四ツ谷バス停の案内標識もある。進むほどに左に現れた川沿いに集落を抜ける。近
畿自然歩道なので要所に道標が現れるので参考になる。海老谷林道や奥山林道を左に過ご
して山肌に沿った狭い道を北上し、急坂になると老杉の間に広場が現れる。
勿論、先行の車はおろか人っ子一人いない。車の音に驚いたらしい鹿の警戒音が杉木立
に大きくこだまする中、歩く準備を始める。好天で日差しが漏れてくるからいいけれど、
これが曇って暗かったとなると、もうよして帰ろうかなどと思うくらい本当に淋しい風情
である。(^^;
玉岩地蔵堂は古錆びてはいるが、”堂”という言葉から思い浮かべるイメージと異なる
立派な建物で、案内板がないのが不思議なほどである。下から庫裡と見えたのは遠来の参
拝客の宿泊に使う建物らしく寺自体は無住のようだ。日吉町教育委員会の説明によれば、
人魚の肉を食べて不老となった八百比丘尼が地蔵を背負ってこの地にやって来、一休み
した後に下ろした地蔵をまた背負おうとすると、地蔵が重みを増して動かなくなった為
にここにお祀りしたという創建伝説があり、長寿、安産などに霊験あらたかだという。
御堂はその名の通り裏の岩を抱くように建てられていて、現在の建物は江戸時代のもの
で南丹市の文化財。表に参拝ノートが置いてあり、開けてみると結構遠方からも訪ねて
来られている。表障子の明かりとりから内を覗くと、一昨日の法要の名残りが感じられ
た。
さて、お次は海老坂の取り付きを探さなければならない。それが今一つ分からず、少し
くまごまごしたけれど、ともかく御堂横を流れる岩がちの小谷沿いに登っていく。先日の
雨で流木があったりなどしてやや荒れている。けれどそれを過ぎれば杉林の下に明快な小
道が現れ、次第に古道の雰囲気を漂わせる思ったより幅広の道になった。
先程、車を止めた広場には四ツ谷八景の一つ『海老坂帰鴈』の説明があったが、なるほ
どその説明通り往時は頻繁に行き来があったことを髣髴とさせるような道である。それは
すぐに細流から離れ、大きくジグザグを切りながら次第に高度を上げていく。倒木が二、
三そのまま放置されている。アスレチック?して越えるとやがて柔らかいいい雰囲気の自
然林が待っていた。カエデやコナラが多いので秋が深まればいい雰囲気であろう。
森林組合の看板の所で何度目かの鋭角を切り背の低いアセビの群生を過ぎると、雑木林
は再び植林下となって長い水平のトラバース道。それはやがてまたへアピンで折り返すと
北に向かう道となり、大きくU字形に掘れた峠となる。『是より船井郡』の石標と向かい
の崖に掘られた穴の中の小祠には、如意輪観音の石仏が安置されている。残念ながら如意
輪観音の首から上は見当たらない。
林道が走っていることは織り込み済みだったが、こんな立派なものとはついぞ思わなか
った。そん所そこらの国道より立派ではないか。その林道に寸断されながらも、古道は美
山町へと下っている。倒木が転がっているがこちらも幅広の道が残っている。往時には牛
馬や炭俵を4俵も背負った女たちが織るように越えたという海老坂。近畿自然歩道に指定
されているとはいうものの、今後も残していってほしいものである。
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所々ダートだがこんな立派な広域林道
しかし車は一台も通らなかった |
さてここからは神楽坂までの林道テクテク。距離は凡そ3kmくらいだろうか。夏の蒸
し焼きにされそうな暑さからは解放されたとはいえ、日光の直射は堪える。ふと頭に手を
やって気が付いた。あれっ?帽子がない!どうも車に忘れてきたらしい。何たること!代
わりに持参の豆絞りの手拭いを頭に巻くことにした。(^^;
林道は全線舗装だと思ったがダート区間が交互に出てくる。しかし轍の掘れもなく至っ
て上等。但し、法面の土砂崩れ防止用に補強された鉄製の網が腐食してバラバラになって
路面に散乱しており、パンクが怖いかもしれない。
右下に何だか大きな広場がある。林道工事用らしく大きな重機が一基置かれている。と、
その時だ。近くでガサガサと何者かが動く気配と何かが唸ったような異様な感じが身を包
んだ。ビクッと高鳴る心臓。そんな時に限ってカケスの妖怪のような鳴き声が響く。横の
ガードレールが眼に入る。ここはトレッキングポールで叩いて驚かすにしくはない。声を
出しながら歩く。ちょっと元気が出てきた。(^^;
この近くには釜糠と呼ばれる三角点峰がある。あわよくば登ってみようと思ったけれど
林道からはっきりした登路が見つからない。唯一、赤茶色の布きれ(ほかにピンクのテー
プがあるが、これは林道工事用の木杭用のものらしい)がぶら下がる取りつき点らしい所
があったが、急斜面で藪っぽく敢えて取り付く気にはならない。最近とみにヘタレ度が上
がっているような....。(笑)
釜糠からは下り坂。オイオイ、帰りがしんどいぞと思うくらい下る。手元の高度計では
100m位の高低差がある。それが落ち着いてくると峠が近いことが分かる。そういえば
車道を走るバイクや車の音が大きくなってきた。左手に標識が見えてきた。海老坂から4
0分。神楽坂に到着である。
西の鯖街道、京都ゼミナールハウスの標識の他に、面白い標柱がある。それ曰く、美山
町には小学校が5校あり、それぞれ代表的な山を一つ指定しているそうで、神楽坂も宮島
小学校の山に指定されている。なんでも平成9年に開かれた高校総体の記念して設定され
た云々。しかしその標高は588.3mとあって神楽坂の標高ではなさそうだ。この辺り
の最高点、西側の釜糠の標高だろう。
さて、そんな詮索は置いておいて、峠の痕跡を探してみよう。ここは海老坂とは違って
稜線部を林道が通過していて惜しいかな峠の風情は完全に破壊されている。しかし、古道
自体は峠から見る限りよく保存されているようである。ためしに日吉町の下佐々江側へ降
りてみると、二基の見落とすような小さな五輪塔が見つかったのは幸いであった。磨滅し
てよくわからないが、一部『女講中』という風に読めた。
林道は概して稜線の北側を行くようで、木々の隙間から北方向が良く見える場所がある。
目立つ山もあるが土地勘のない悲しさ、それが何かとんと同定できない。頭巾山や長老ヶ
岳などの有名どころも見えていたのだろうが。それにしても車が通らない。タイヤ痕があ
ったから皆無というわけではなかろうが、今回は一台も見かけなかったし、玉岩地蔵堂に
戻ってくるまで人にも一切遭わなかったのである。(^^;
途中きりのいいところで食事を摂り、重機の広場まで戻ってくる。するとまたガサッと
すぐ横の繁みで何者かの気配がする。ビビりながらすかさずガードレールを叩く小生。や
っぱり何か獣がこの辺りをねぐらにしているみたいだ。そこから200mも進んだ辺りで、
一頭の鹿が20mほど前方の林道を横切ったから、鹿なのだろうか。姿を見ないというの
は誠に気持ちのいいものではない。
海老坂に戻り、林道方向から峠の写真を撮っていると、如意輪観音の祠がある右の崖上
に石塔の頭が覗いているのに気付く。傍まで登っていくと大きな宝篋印塔で、高さは2m
有余はあるだろうか。塔身部分に仏の種子と思われる梵字が彫られているのが分かる。礎
石部分にも模様がある
が何だか不明。帰宅して調べると南北朝時代の年号が刻まれているのだそうだ。牛か馬で
運んだのだろうが、それにしてもこんな重たいものよく運んだものだと思う。これを見て
も、この海老坂がよほど重要な峠だったことが分かる。
後は降りるのみ。地蔵堂へお参りしてから参道を下る。右手の高台には歴代の住職らし
い方々の墓が立つ。その一番左の墓には昭和35年の銘があったから、今から50年前ま
では常住の人がおられたようである。
不意に人声がしたので振り向くと男の子とその父親の二人連れ。今日、山中で初めて遭
ったホモサピエンス。(笑) 車を駐車した広場の角には、自転車が2台置かれていた。西
の鯖街道探訪。なかなか興味深いものでありました。
【タイムチャート】 |
9:10 | 自宅発 |
10:45〜10:50 | 玉岩地蔵尊駐車場 |
10:52〜11:00 | 玉岩地蔵尊 |
11:22〜11:30 | 海老坂 |
12:10〜12:22 | 神楽坂 |
12:50〜13:08 | 釜糠西200m地点の林道(昼食) |
13:30〜13:40 | 海老坂 |
13:58 | 玉岩地蔵尊 |
海老坂、神楽坂のデータ |
【所在地】 | 京都府南丹市(旧美山町・日吉町) |
【標高】 | Ca470m |
【備考】 |
若狭街道、高浜街道の途中にある峠です。西の鯖街道と
も呼ばれ、往時は若狭の海産物を商う行商人や近在の山
仕事の人々が多く行きかったと思われ、往時を偲ぶ石仏
や宝篋印塔が残されています。海老坂は往時の偲ぶよす
がが残されていますが、神楽坂は林道に寸断され峠の雰
囲気が損なわれてるのが残念です。 |
【参考】 | 2.5万図『四ツ谷』 |
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