安土山・繖山〜つわものどもが夢の跡
 
平成18年 7月 2日(日)
【天候】雨のち晴れ
【同行】単独
西の湖の向こうに長命寺山。その奥は比良山系
この風景を信長も見たのだろうか?
(安土山の旧ハ見寺址付近から)


 またまた日曜は雨模様。でも燻ぶっていても仕様がない。雨でも歩ける所へ行きましょ
うか。今回は湖東の安土山、繖山(観音寺山)を巡って、兵(つわもの)どもが夢の跡を
辿ることにしよう。

 東の空が朝焼け。薄日も射すがこれは天気が良くない証拠。案の定、京都を越える辺り
になって一転、空は掻き曇り、猛烈な雨粒が落ちて来た。ワイパーも効かず、少し危険を
感ずるくらい。一旦小康状態となるも、竜王ICを降りる頃には再び土砂降りの雨。稲妻
や雷鳴が響き渡る。こりゃ運転は危ないというわけで、最寄のコンビニで弁当を買うのを
幸いに駐車場に避難して通り過ぎるのを待つ。

安土町の水田から眺める安土山

 およそ10分。駐車場で待っているとようやく雨も小降りになってきた。もう大丈夫と
R8をしばらく走ってJR安土駅方面へと折れ、JR東海道線を越えると、右前方にこん
もりとした丘が見えてくる。安土山のようだ。県道2号に出るとまもなく、その丘の裾に
大きな駐車場が現れ、階段道が丘の木立の中に伸びているのが見える。

 今日は山靴はやめて長靴だ。安土城の大手道と呼ばれる自然石の広い石段道を上がって
いく。遺構の説明板を読むと、この安土山の大半がハ見寺の敷地なのだそうだ。それに並
んで『秋からは有料とします』の無粋な案内も。大河ドラマも今年は「功名が辻」、来年
は「風林火山」。いずれも信長の時代のドラマ。観光客が増えるに従って、安全整備に費
用がかかるからなのか。そういえば「自己責任でお願いします」との看板もあったから、
怪我した人が結構居るのかもしれない。因みに石段は405段あるという。

秀吉も登った安土城大手道

 さて、大手道を登ってすぐ右が前田利家邸跡、左が羽柴秀吉邸跡である。その上の右が
徳川家康邸跡と言われる現在のハ見寺の境内である。大手道の石段は戦術上、わざわざそ
うしたのかどうか、段差が結構大きい。現代より背が低かった昔の人には少し高すぎるか
もなどと考えながら行くと、何やら地面に説明板がはめ込まれている。なんと石仏が埋め
こまれているのである。安土城築城に際し、近郷近在からありとあらゆる石を集めたとの
ことで、墓石や石仏も例外ではなく、今も幾つか石仏が埋まったままになっているのだと
いう。既成概念に囚われない信長の人となりがその一事を見ても分かるようだ。

大手道の敷石に使われた石仏

 雨は完全に上がり、ほんの1時間前とはうって変わって青空が広がり、日が射し始めた。
急に暑くなって、こんな坂道でも汗が噴き出してくる。道は屈曲しながら山上へと伸び、
信長の祐筆筆頭、武井夕庵屋敷跡から、本能寺で共に亡くなった嫡男織田信忠邸跡へと続
く。本丸まで190段。そして織田信澄邸跡、森蘭丸邸跡と、本丸に近づくに従って腹心
の邸跡が並び、黒金門跡に出る。この付近の石垣は石のサイズも一段と大きくなっていて
立派なものだ。その先にぽつんと仏足石。この辺りは二の丸跡だ。そうして、豊臣秀吉が
造立したという信長廟を左に過ごせば本丸跡といわれる千畳敷。その上が天主台跡である。

安土城天主台址の礎石

 天主台があった広場には大きな礎石が幾十と並んでいて、周囲には石垣が補強してある。
その石垣に登っても、今は木立が伸びて見晴らしは良くない。わずかに北西方面に琵琶湖
の湖面が望め、多景島らしき島影が認められた。しかしながら、正直な感想を述べれば、
天主台は意外に小さいの感が否めない。古今無双を誇った大阪城を見慣れている所為なの
かもしれない。

 礎石の広場に戻る。折からの陽光に地面が温められ、地面から水蒸気が陽炎の如く立ち
昇る。その陽炎は所詮、人間のなせる業、兵(つわもの)どもが夢の跡を象徴しているよ
うにはかなく、大気に立ち昇り消えていった。

 登ってきた方向に曲がらずに旧ハ見寺跡へ向かう。ハ見寺は安土城の中に取り込まれた
寺院。信長の戒名「ハ見院殿贈大相国一品泰厳大居士」はこの寺の名称「ハ見寺」に由来
する。早く完成させたかったからか、三重塔や二王門など近在から建物を移築したものが
多いが、当時の在世宗教に反感を持っていた信長としたことが、これはどうした事であろ
う。不思議な感に堪えない。

 杉木立の中を少し登った先がその旧ハ見寺の本堂跡。光秀の謀反による安土城炎上の際
にも類焼しなかったものが、江戸末期に失火で全焼したという。残念な事だ。それでも立
派な三重塔(重文)が残ったのは不幸中の幸いである。緑の中にしっとりと佇む三重塔の
姿は美しいけれど、なかんずく素晴らしいのは西の湖の眺めであろう。湖の向こうには長
命寺の山並みが起伏し、その更に奥には比良山系が霞んでいる。西の湖は琵琶湖最大の内
湖で、その西の湖と琵琶湖との間には、以前は更に広大な大中の湖、小中の湖という内湖
が広がっていたのであるが、太平洋戦争時代、戦時の食糧増産の掛け声の下に大半が埋め
立てられてしまい、今の形なったという。信長の時代には西の湖は安土山の足元を洗い、
自然の堀を形成していたに違いなく、安土の城の威容が湖面に映えていたであろう。それ
も今は昔。大きな欅の木が静かに見守るばかりである。折角なので、今日はここで弁当を
広げることにした。
重文の旧ハ見寺三重塔
甲賀からの移築だそうだ

 三重塔、二王門と石段を下り、左に折れると10分ばかりで羽柴秀吉邸跡で大手道と合
流する。大きなクヌギの木には樹液を求めてカナブンやスズメバチがやってきている。間
もなくこの辺りも蝉しぐれで覆われるに違いない。

 駐車場まで戻ってきたが、これで帰るのは勿体ない。折角なので目の前に聳える繖山に
も登っていこう。繖山には二等三角点があるのだ。(^^)/ さあて、何処から取り付くか?
やっぱり桑実寺か観音正寺の参道を麓から登るのが無難だろう。その中で観音正寺は西国
札所。参詣者の車が登る道があるはずと常に頭にはある。地図を見れば西からの林道と東
から登る林道がある。この梅雨時の蒸し暑さ。安易な方に向かうのは凡人の常。(^^; や
はり林道を使おうと、観音正寺に向かって車を回して北腰越を抜けると、こんな所にこん
な立派な道が要るんかいなと思えるような「きぬがさトンネル」。抜けたらすぐに観音正
寺の道標がある。観音寺林道だ。谷川沿いに狭い舗装路を進むと、駐車場と管理ゲートが
あった。管理ゲートに詰めているおじさんに聞くと、ここから上にも駐車場があって、使
用料は500円とか。車で3分程らしいのであるが、但し歩くと30分はかかるのではと
のたまう。500円が勿体なくもあったが、そこは心に巣食う悪魔が囁く。(楽やでぇ〜)
(そやそや、観音正寺は数年前、失火で全焼したしなぁ。そのお布施を上げとかななぁ)
変な屁理屈を付けて、気がつけばついつい500円払ってしまっていたのだった。(笑)
大阪から来たと言ったら、おじさん、五個荘町の観光ビラをくれた。『てんびんの町』即
ち五個荘は近江商人の町なのだ。でもビラを読んだのは帰宅してから。その時読んでたら
少し寄り道したのに。少々悔やまれた。

 狭いつづら折れを数分走らせると最後の右カーブの先が広くなっていて、10数台置け
る位の広さがある。その先も林道は続くが車止めがある。舗装は途切れてそこからは歩き
のようだ。おじさんの云う通り、確かに2〜30分くらい節約できたかな?

 400m程度の山とはいえ、吹き通る風が心地よい。梅雨前線が南下したらしいことも
預かっているのかもしれない。「警句」が書かれた案内板に従って、ほとんど勾配のない参
道(林道)を歩く。山の北側なのでやや暗い。左から観音寺口バス停からの小道。奥の院
への案内もある。10分足らずで南側へ出たのか明るくなったと思ったら、観音正寺の境
内であった。これで二度目である。最初は10年以上も前に、南の石寺から自然石の表参
道をえっちらおっちら。お寺が全焼する前であった。石寺の茶店でほんの10cm程度の高
さの石楠花の苗を買い、それが今では高さ数十cmとなり、毎年春には花を咲かせてくれる。
そんな思い出もある。

観音正寺境内から湖東平野の眺め
右の三角形は三上山。その隣が鏡山、
手前左端に雪野山が見える

 取付きを聞こうと本堂に上がらせてもらう。火事で秘仏の本尊まで焼けてしまったので
あるが、今はインド渡来の白檀で造立された大きな千手観音像をいつでも拝むことが出来
る。拝観料が不要というのもいい。若いお坊さんが受付にいたので確かめる。すると境内
の「濡仏」と呼ばれる大仏さんの横からだという。三角点は景色がいいのでぜひ行ってみ
ろという。戻ると確かに大仏さんの後ろに小道がある。しかも「観音寺城跡、三角点」と
ご丁寧な案内板まであった。

 本堂の裏手に回って鳥居の横を抜ける。湿った山道は意外に太いが、常緑樹主体で暗い。
案外すぐに三角点分岐。後で戻ってくることにして、先に観音寺城址へ行く。やや登って
左にカーブし山腹を巻くように進めば、程なくして現れた疎林が茂る台地が本城址であっ
た。

 名門宇多源氏の流れをくむ六角佐々木氏も時代が読めず、義賢(承禎)の時代に信長に
蹴散らされてしまった。その観音寺城の隣の安土山に天下布武の城を築くなんぞは、旧勢
力と新興勢力の力の差を見せつけんとする信長の皮肉か。

 その日本有数の山城も今はわずかに残る石垣と広い台地にそのよすがを偲ぶのみ。後は
何もない。広い大手道のような階段道は何処へ続くのか。もう一本杉木立の中を行く道も
ある。そうして、石垣の間をすり抜けるのは、桑実寺へコースである。

往時を伝える観音寺城址の苔むした石垣
水抜きの溝が見える

 城址を後にして、分岐から三角点へ向かう。最初は竹やぶの中の丸太で補強されたきつ
い階段道である。この辺りが少々気持ち悪い。背後や頭上でガサッ、ゴソッ。風でそよい
だ竹が隣の竹と当たったり、擦れたりして異様な音を立てるのだと分かってはいるものの、
何だか戦で命を落とした雑兵たちが魑魅魍魎となって脅かすみたい。しかも午前中の雨で
ジメッとしているので、長いものやヒルや毒虫が出てきそうな雰囲気もある。道の両側も
繁茂した雑草がかぶさる。しかし、出丸の石垣か何かが現れた後、常緑樹の暗いイメージ
の中から稜線に出ると一転、明るい雑木林となって、風も出てきて気持ちよい。と、突然、
右手に小さな広場が現れた。ここにも石垣が残っており、郭か何かがあった痕跡のようだ。

 尾根道の小さなアップダウンを2、3こなし、小さな露岩の間を抜けた先に地獄越えへ
の分岐標識が現れる。そこを左に曲った所が山頂であった。

繖山(観音寺山)山頂と二等三角点

 二等三角点のある狭い山頂である。「きぬがさ山の会」の山名板が一つ。よく整備され
ていて、県道から安土城址へ向かう道、北の麓の須田集落の道が集まってきていて、結局
4本の道が山頂から出ていることになる。展望は木立が邪魔してお坊さんが云うほどのこ
とはなく、観音寺山から北に伸びる尾根筋と西の湖、南西方向に三上山が見える程度で、
安土山も箕作山も木立の陰である。が、涼しい風が吹きぬけ心地よい。露岩に座って、お
やつのバナナパンを食べることにした。その時だ。「やや?」腕に血が一筋。やられたか。
慌ててかゆみ止めを塗りこんだが、それらしい虫はいなかった。

 再び異様に暗くなってきた。黒雲が北の方から。雨の降り出さぬ内に下山にかかろう。
竹やぶのガソゴソにまたまた驚かされながら、自然に足は速くなる。滑る足元が危ういな
がら何とかひっくりかえりもせず、寺境内の取り付きへ。小道のそばに往路では気づかな
かった大きな檻に犬が2、3頭。眼だけこちらに向けるばかりで大人しく、やにわに吠え
かけられて吃驚せずに済んだ。(^^;

 山から下りて、またまたコーラが飲みたくなった。通常はそこいらの自販機で買うのだ
が、交差点で偶々、五個荘観光センターなる建物が目に入り、山野草と染め抜かれた幟に
フラフラと吸い寄せられる。結局、気がつけばコーラの他に安いフウランが手元にあった
のだった。振り仰げば、梅雨の中休みの青空をバックに繖山が笑っているようであった。

五個荘町側から眺める繖山
雨雲の靄が静かに降りて来た



【タイムチャート】
8:50自宅発
10:35〜10:40安土城址駐車場(駐車地)
11:20〜11:30安土城天守台
11:40〜11:55旧ハ見寺址(昼食)
12:15〜12:20安土城址駐車場(駐車地)
12:40〜12:45観音正寺観音寺林道駐車場(駐車地)
12:53〜13:03観音正寺
13:05繖山(観音寺山)取付き
13:08三角点分岐
13:10〜13:15観音寺城本丸址
13:17三角点分岐
13:28〜13:40繖山(観音寺山)(432.5m 二等三角点)
13:52三角点分岐
13:55繖山(観音寺山)取り付き
14:02観音正寺観音寺林道駐車場(駐車地)


繖山(観音寺山)のデータ
【所在地】滋賀県蒲生郡安土町、東近江市
【標高】432.5m(二等三角点)
【備考】 安土山の東に連なる山塊で箕作山や太郎坊の北に位置し
新幹線からもよく姿が見える山です。近江守護六角佐々
木氏が繖山のほぼ全域にわたって城を構えていましたが、
戦国末期六角承禎の時代に織田信長によって滅ぼされま
した。西の山腹に桑実寺、北に石馬寺、南に西国札所の
観音正寺などの古刹があり、四方の麓から登山路があり
ます。
【参考】
2.5万図『八日市』



   トップページに戻る

inserted by FC2 system