都介野岳〜都祁野は懐かしき田舎の匂い
 
平成17年 8月14日(日)
【天候】曇り
【同行】単独
三陵墓西古墳から眺める都介野岳


 今日は金剛山で「納涼ソーメンオフ」の予定であったのだが、生憎、主催者のNさんに
のっぴきならない事情が出来て、残念ながら急遽中止に。天気もパッとせず、それなら家
で大人しく・・・。といかないのが小生の常?(笑)。で、ブラッと大和高原へ。古い神社
や寺を訪ね、最後は古墳公園に寄って、当然、その途中にちょこっと山にも登ってという
趣向。その舞台となった都祁の里は、まだまだ昭和の匂いを残した懐かしさ一杯の田舎な
のでした。

 名阪針インター。いつもは榛原方面に南下するのだが、今日は道の駅のコンビニで食料
を入手した後、北上して直ぐに左に折れる。名阪の高架を潜って、左手に都祁中学校。更
に進んで右に老人施設を見る頃、左奥に目に留まったこんもりした森と鳥居。第一目的地
の都祁水分神社らしい。それへ向かって農道を進む。まず神社の駐車場を探して神社の周
囲を一周するが、どうもそれらしいものがない。仕方が無い。鳥居横の路肩の広まった辺
りを拝借するか。
都祁水分神社正面

 標高500mの大和高原。流石に涼しい。準備を終えて都祁水分神社の拝殿へ向かう。
聖武天皇の頓宮も付近に置かれたという、思ったよりも立派な神社である。神域が広いわ
りに鬱蒼としていないのは、数年前の台風で古木が多く倒れたからだそうだ。当社の由緒
書きに依れば、創建は飛鳥時代に遡るという延喜式内社で本殿は重文。大和に四つある水
分神社の一つで、木津川と大和川の分水嶺が付近にあることに由来するという。

 ポツポツと降りだした小雨の中、玉砂利が敷かれた結構長い参道を進む。玉垣に「戦捷
云々」とあるからてっきり先の太平洋戦争のことかと思ったら、明治35年とあって、な
んと日露戦争のことだと分かる。うーん、流石、奈良は古いのだ。

 拝殿前の広場に出る。鎌倉時代作といわれる古い狛犬が拝殿の間に鎮座する。研究家に
とっては有名な狛犬なのだとか。向かって左には社務所があるが、これだけの神社なのに
閉じられて、無住のように思えた。

鎌倉期といわれる古い狛犬像

 万葉集にも記載があるという『山辺の御井』。どんなものかと社務所の右手から歩いて
いくと、注連縄を巻いた杉の根元にある、ドロンと淀んだ水を湛えた変哲もない水溜りで
ある。『山辺の御井』については三重県の久居他、三ヶ所に比定される説が有力との事で
あるが、はっきりしたことはわからないらしい。

    「山辺の御井を見がてり神風の
             伊勢娘子ども相見つるかも」  長田王

 神社の森を抜けると友田の集落。墓地を右に見て狭い舗装路を右にとる。畑仕事のおば
さんに道を尋ねたら親切に教えてくれ、その方へぶらりと歩いていく。すると間もなく都
祁甲岡町の標識があり、左には甲岡池。小治田安萬侶の墓は民家の横を50mほど山へ入
った所だった。従四位の役人小治田安萬侶はその業績は詳らかではないものの、続日本紀
に叙位の記述があり、珍しいことに火葬にされた人物なのである。亡くなった日(神亀6
年(729年)2月9日)の翌日に、長屋王の変が勃発、藤原氏の権力が確立されたとい
う、そういう時代を生きた男でもある。そして明治45年に墓碑銘が出土したその墳墓は
今は小さな墳丘でしかない。

小治田安萬侶の墓

 さて、取って返して、池の端を南西に進む。県道都祁名張線に出た所が来迎寺のバス停。
例の青赤の捻り棒があるだけで理髪店の看板も無い古めかしい理髪店がある。その横を入
るとその先は鬱蒼とした森で、手前に『ひとやすみ一休』と名づけられた休憩所の建物。
BGMの鳴るトイレと聞いていたが、鳴らず。しかも何となく陰気な感じを受けたのは気
のせいだろうか。

 行基開基という浄土宗来迎寺の入り口はその休憩所の横である。ひっそりと、今にも崩
れそうな苔むした石段を上がると、これまた崩れそうな本堂と、庫裏。無住になって久し
そうではあるが、それに較べて庭のツゲの木は手入れしてからそれ程経っていないような。
釣鐘も現役みたいにみえる。ここは五輪塔群が有名だそうで、本堂の裏手に廻ると、ほん
に数十の五輪塔が所狭しと居並んでいるのは壮観。関係のあった興福寺や多田源氏の関係
者の墓碑だそうである。

来迎寺の五輪塔群

 来迎寺を出て、山裾を縫うように小道を南へ。溜め池には小糠雨が作り出す細かな波紋
が浮いているが、傘をさすほどでもない。突き当たりの関電の針配電塔施設前で左に折れ
る。すぐ右手に牛の飼育場があって臭い。金ジツ池を右手に見る頃、ようやくその臭いか
ら脱して、山裾を抜けると前方が開けて国津神社と背後の山が見えてくる。

 国津神社も小振りながら、すっきりした社である。その名からして、国つ神系の神を祀
るのであろう。ところでこの付近の神社は概して手入れが行き届いて清浄な感じを受ける
が、氏子である近在の農家が豊かなのに違いない。寺や神社を中心としたいい意味での「
ムラ社会」が残っているように思えた。

 都介野岳へは本来は神社の前の農道を行けばよかったのだけれど、案内標識が車道にあ
ったものだから、そのまま車道を歩いてしまう。おかげで都介野岳が見えているにもかか
わらず、登山口を示す標識がもう出るだろう、もう出るだろうと期待している内に、建設
関連の工場がある峠を下って、広域農道との交差点まで来てしまった。他の案内標識が適
切なだけに、さっきの標識はやはり国津神社の横に設置すべきであろう。

国津神社付近から都介野岳。左は茶畑

 これは行かぬと引き返して、国津神社の森から山裾を延びる農道が見える辺りで右に折
れて本来の道に合流する。丁度、日輪教会本部の看板が上がる豪壮な大和民家の前である。
民家の点在する間をゆるゆると歩けば2、3分で標識のある登山口。早くもツリガネニン
ジンの花が揺れている。雨も上がったようだ。

都介野岳の登山口。左に標識がある

 都介野岳の北の小尾根を登る丸木階段の1m幅の山道は、生え込んでいると半ズボンだ
し嫌だなぁと思わせながらも大して繁った場所もなく、植林帯で風がなくむし暑いのと、
クモの巣に時折、悩まされる他は快適。やがて旧都祁村の簡易水道施設が現れる。その先
に進むことしばらくで傾斜が緩む。さっきの車道から都介野岳の姿を眺めて確認していた、
所謂”肩”へ出たことになる。苔むした古いプラスチック製のベンチが置かれ、その先が
四辻で、左から林道が登ってきていて、三陵墓へとの標識が立つ。山頂へは直進して今ま
で以上に傾斜が厳しい直上道である。ここからは雑木林となって、時ならぬ侵入者の到来
に、蝉がバサバサと驚いて逃げ出す。

 途中の台地に建つ役の行者の祠を右に過ごし、クマザサの中を白い手すりも備えられた
道を更に登りつめると、頂上台地にくすんだ建物が二棟。その手前に国土地理院の例の白
い標識と四等三角点がある。

都介野岳山頂の竜王社
手前の笹の中に三角点がある

 山頂は南北に長い台地で、展望図も置かれているが、木の間越しに北東方面が垣間見え
るのみ。建物は竜王社で、登ってきた道はその参道らしい。道理で途中の山道に街灯が設
置してあったのだ。もう一つの建物は参籠所のようであったが、内部の壁が崩れてもう永
らく使われていない雰囲気で、いずれ年長の信者が居なくなれば自然に帰ってしまう定め
のようであった。

 小休止して水分補給の後、下山にかかる。四辻へ戻って三陵墓に向かうため右へ。時々、
コンクリート舗装になる林道は緩い傾斜で、登下山はこっちからの方が楽だ。(笑) 10
分も下れば左に稲田が見え出し、やがて茶畑と民家が現れ、変則Y字路へ飛び出した。

 右(北)へ向かえば車道に出て南之庄東口のバス停に出る。ここまで来ると、右手の稲
田の向こうに円筒埴輪が並ぶ墳丘が目に入る。立派な参道と石灯籠が置かれた忠魂碑の丘
の前から折れると三陵墓史跡公園だ。

三陵墓西古墳の円墳とユーモラスな古代人の石像

 三陵墓はいずれも5世紀中期の建造で、古代の闘鶏(つげ)国造の陵墓ではないかとさ
れる。とくに東古墳は大和高原随一の大きさといわれ、墳丘部は110mという。まずは
西古墳へ。大きな古代人の石のモニュメントが立つこちらは円墳。直径は40m。墳丘の
上に立つと、都介野岳が端正である。古代人がこの山を神宿る山と仰ぎ見たことは間違い
なく、その北の支尾根上に墳を造ったことも納得できる気がする。因みにもう一つの南古
墳は忠魂碑の南にあるそうな。

 そんなことどもをつらつら考えていたら、急に空腹感を覚える。東古墳には疎林があっ
て、昼食に良さげと思ったが、行ってみればそれ程でもなく、結局、時空の丘近くの東駐
車場のあずまやに腰掛けた。パンフレットも置かれていたので有難く頂戴する。

 30分ほどのランチタイム。蝉も鳴き出した。もう雨も大丈夫だろう。東屋を後にして、
NTTの施設の前から西へ。再びやってきた南之庄東口のバス停には休日ダイヤの表示。
バス停は民家の軒先を借りていて、覗くと古めかしいソファがあって、コンソール型らし
いテレビは高校野球を映し出している。横に岐阜提灯。奥から小さな子供の声とそのお爺
さんらしい声。そういえば今はお盆なのだった。子供夫婦が帰省しているのだろうかなぁ。
こんな光景、どこかで見たなぁ。そうそう、オフクロの田舎。この時期、テレビといえば
高校野球だったなぁ。きっと、おやつは井戸で冷やした地元のスイカに違いない。(笑)

 県道を更に西に向かう。田圃には早稲が多いのか、早くも重そうに頭を垂れた稲穂。で
も所々に休耕田も散見され、後継者が居ないのか少し淋しい雰囲気を醸し出す。

 四つ角にあったN工業の工場。黒瓦の木造二階建ての古い小学校の建物をそのまま転用
したらしい。外壁も板張りで懐かしい。小生が小学校に入学した頃もこんな建物だったっ
け。やがて、見覚えある理髪店の赤青の捻り棒が見えてくる。甲岡池の端を戻って安萬侶
の墓の前に出た後は左にとり、駐車地に戻ったのである。

 懐かしい日本の風景がいまだに残る長閑な都祁の里。久しぶりにほっこりした半日。針
から名阪道にのった途端、にわか雨でした。


【タイムチャート】
9:15自宅発
10:45〜10:50都祁水分神社前(駐車地)
10:50〜11:00都祁水分神社
11:03山辺の御井
11:15〜11:20小治田安萬侶の墓
11:25〜11:30来迎寺
11:50国津神社
12:00広域農道の交差点(ここでUターン)
12:05日輪教会前
12:07都介野岳登山口(国津神社側)
12:16三陵墓登山口出合
12:23〜12:28都介野岳(631.2m 四等三角点)
12:34三陵墓登山口出合
12:45三陵墓登山口
12:52〜13:20三陵墓古墳群史跡公園
14:00都祁水分神社前(駐車地)


都介野岳のデータ
【所在地】奈良県奈良市(旧都祁村)
【標高】631.2m(四等三角点)
【備考】 都介野富士とも呼ばれる富士山型の山容で、都祁高原の
シンボルとも呼べる山です。標高約631mですが、都
祁高原自体がほぼ500mあり、登山道も整備されてい
るのでハイキングがてら登れます。山頂からの展望は木
々の繁りの為に冬以外は良くありませんが、木の間越し
に、東北方面が望めます。
【参考】
2.5万図『大和白石』、『初瀬』
近鉄てくてくまっぷ『大和高原・都祁の里コース』



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