御嶽山〜栗の花匂う播州路 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
播州清水寺山門。杉木立の奧に御嶽山最高点がある |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
梅雨入りだぁ。世の中全体がじっとりと、温室に入ってしまったではないかと思われる 湿気。体中にカビが生えそうな気分だ。こう天候が芳しくないと気勢も上がらない。とは 云いつつもやっぱり何処か歩きたいし。で、毎年この時期、雨でも行ける所を探すのだが、 なかなか適所が思いつかない。藪は嫌だし、岩は滑るし....。そして当日までに行先が決 まっていないと、時間だけが容赦なく経過していき、とどのつまりが行きそびれて後悔の 臍を噛むことに。(笑) こういう時は古道か参道だ。待てよ、その時ふと思い浮かんだ場所がある。何かのHP で見たような。何処だったかなぁ?そうそう播州清水寺。そういえば今年の春、三草山か ら案外綺麗な山容を見せていたっけ。お参り兼ねて行ってみるかぁ。カシミールの地図と、 国地院の地図を印刷して早速出発。 実はこの清水寺は三度目の訪問。1回目は30年も前になるか、親父に連れられてバス で。2回目は10年余り前、西国札所巡りを車で。そして今回。 舞鶴若狭道三田西ICで降りれば、結構早く清水寺の参道下の駐車場に着く。生憎、雨 が降り出した。駐車している車無し。ということは、こんな雨の中、下から登る物好きは 居ないということか?そんな物好きを尻目に観光バスが通り過ぎていった。 ドライブウェイの料金所の手前左手に参道がある。石仏が3体と祠に入った地蔵さんが 1体。向かって一番右の石仏は法道地蔵。法道仙人は清水寺の開基で役小角に匹敵する超 人。この辺りの寺は全部この法道仙人が開基といっても過言ではない。祠のお地蔵さんは なんと東京は小石川幼稚園にあった小石川地蔵だそうだ。H14/4に閉園したのでここ に移したのだという。清水寺の住職が社町で初めて幼稚園を開いたというから、その縁で ここに鎮座しているのだろう。かなり古そうなお地蔵さんではあった。
が、所々にある旧参道の名残は直登で結構、厳しそうである。 砂防堰堤を過ぎて、杉林の中の道は概して展望はない。鬱蒼とした杉林や草蒸す部分を 過ぎると、ゴロ石が目立つ道になって、暫くでヘアピンの角にお地蔵さんが立つ辻。丁度 五丁石標辺りだろうか。お地蔵さんの左右に石の道標もある。左の石標は「右、くめさか、 左、三田道、中山道」と読めた。右の石標は「へんろみち」とあって、一乗寺へ続く道だ ったのだろうが、寺僧の墓地から先は草蒸す道だ。
蛛の巣に偶々引っかかっていただけのことだったが、そのお陰でそこに立ち止まることと なって、「稚児岩」に気付くことになった。南北朝末期、北朝方に攻められた赤松氏範が、 五男乙若丸を落とす為、ここで別れたのだという。良く見れば高さ10m程の縦に割れた 岩がそそり立っているが、表面に蔦が茂って分かり難く、杉の枯葉のダンスでもなければ、 きっと通り過ぎていたに違いない。 そこから清水寺の境内はまもなくである。法華山道と彫られた大きな石標の立つ踊り場 から100段はありそうな石段が延びる。左は庫裏だろうか、白壁の塀が続く。苔むして 滑り易い石段をゆっくり登り詰めると右手に懐かしいものが。郵便ポストだ。懐かしいと はよく見ると間違いで、これは戦前のものでは無かろうか。右から左に「郵便」とある。
って根本中堂。更にその奧が高みになっている。廃墟跡の様な平坦地は大塔跡で、石の礎 が残っている。五智如来が祀られていたが、明治40年火災、大正12年再建、昭和40 年の台風で全壊して現在に至る。その更に奧がまだ高い。地道があるので辿ると、左手に 登れそうな所がある。上がってみると地下に埋められた浄化槽の様な施設があって、その 奧は杉のヤブ。手元のGPSは541mを表示。地形図では最高部はCa540m。という わけでここで了とした。 尚、四等三角点は駐車場の端のフェンスから直線距離で約100m。雨の中、50mは 降らねばならないし、早々と断念であった。(^^; あちこち寺の境内を散策しながら、往路で見つけた東屋へ戻って食事。午後は付近の湿 地で花探しだ。食後のコーヒー含めて30分で切り上げて下山である。 来た道を降っていると、麓近くのベンチで遍路の小父さんを見つける。四国八十八ヶ所 じゃ珍しくも無いが、西国三十三ヶ所では一寸珍しいんではなかろうか。お気をつけて。 車に戻り装備を解く。それでは次の目的地、西光寺山の麓へ。 以下、詳細は『貴公子花紀行〜湿地の花を求めて』にて。
|