妙見奥ノ院周辺山歩

平成13年 5月18日(金)
天候: 晴れ
同行: 単独
関西の身延山といわれる日蓮宗真如寺本堂


 今日は朝からこまごまとした雑事が控えていたのだが、何とか昼から時間が空き、天気
もいいしで、久しぶりに妙見奥の院へ出かけてみた。二時からスタートというお手軽散歩
だったが、ピークも踏んで、歴史散歩も出来たという意外に充実したものなった。

 昼食後、そそくさと用意をし、車に飛び乗って能勢を目指す。当初はR477沿いにあ
る真如寺の駐車場を利用させて頂くつもりであったが、入口にチェーンが捲かれてあった
ので、京都交通の奥の院バス停前にあるGSの隣の空き地に車を止めさせてもらう。

 準備を整えて奥の院の参道をゆるゆると登る。東側に中学校、谷川沿いに桜並木が続く。
民家が途切れて、最初に左手に見えるこじんまりした寺が持経寺。ふと見ると「軍艦鈴谷
の碑」と彫られた石碑が目に入る。以前、摩耶山天上寺で、戦艦摩耶の碑を見たことがあ
るが、同様のものらしい。戦歴には昭和19年レイテ沖で沈没と読めた。

 いつの間にか右に移った谷がやや深くなると、左手に真如寺本堂の真新しい甍。関西身
延山と云われる当寺は、江戸時代初期に能勢頼次が身延山から日乾上人を招き、開山した
のだという。梵鐘は直径約1m。元応元年(1319)に鋳造された、元々京都は長岡京
の勝竜寺のもので、府の文化財に指定されているという。勝竜寺は細川藤孝の居城があっ
た場所。藤孝もこの鐘の音を聞いたのだろうか。 

 右に修行用の滝を眼下に見て、やや傾斜を増した道を行く。何時しか舗装も途切れ、深
かった谷も浅くなってくると、道は谷と分かれ左に折れて山腹に取り付く。ここからは雑
木が主の明るい道で、ジュウニヒトエの白い花やモチツツジ、ヤマツツジの花が彩りを添
え、所々に休憩用の石も置かれている。何度かジグザグを繰り返し、高度を稼ぐ間に西側
が開けてきて、地黄の里やゴルフ場、野間の高岳、妙見山や高代寺山が望見出来るように
なる。しかし霞がかかって視界は伸びない。

 三丁石を見つける頃には傾斜も緩んで尾根筋を進む道となる。やがて大きなアカガシ。
小さな祠や猫塚が左手に現れて、落ち葉の積もった薄暗い道が山腹を絡み出す。そしてす
ぐに見覚えのある奥の院の石段下に着くが、先に四等三角点の点名『奥の院』(540.
8m)を目指すことにする。

 バイク除けの柵が設けられている鞍部に出る。ここは十字路になっており、左は堀越峠、
右は本滝寺を経て妙見本宮への道。が、それ以外に直進の道がある。点名『奥の院』へは
この道だろうと当たりをつける。(*1)

 赤松が茂り、モチツツジ、ツクバネウツギが咲く尾根筋の道。マツタケ山なのか、ナイ
ロンテープが続いている。右の高みへの登路を探しながら、倒木の下をくぐったりしてい
る内に、道は右に大きくカーブして降っていく。こりゃいかんと右側斜面を眺めると、道
がカーブする付近に薄い踏み跡。ちょうど人一人が通り抜けられる空間が雑木の間にある。
若干ヤブっぽいが、登ってみるとしばらくでコンクリート作りの丈の低い円形の建造物が
現れ、その横に綺麗な三角点が見つかった。点の記にあった「監視所」とはこれのことら
しい。屋根のないトーチカ風で中を覗いてみると深さは1.5m余り。内側は煉瓦をセメ
ントで固め、覗き窓らしきものも認められた。

 このピーク、監視哨(*2)があった割には展望もない。当て推量だが、大阪方面を空
襲する爆撃機の進路を監視するものだったのかも知れない。勿論、雑木の茂る狭いピーク
には山名プレートもテープもなく静かなもの。早々と三角点にタッチして引き返す。

点名『奥ノ院』山頂の四等三角点とGPS

 奥の院の石段を上がって、右の庫裡。話し声がすると思えば、住職が信者と思しきおば
さんの相談を受けている最中。その話も一段落した所を見計らって、住職に三角点の横の
建物について尋ねる。(お聞きした内容は*2にある通り)それを契機に話が弾んで、奥
の院には40年も住している事。昔はバイクで食料を運んだ事。喘息だったが、神戸にあ
る薬屋の漢方薬を飲んで治癒した事。周囲の大木はアカガシで、雪の重みでしばしば折れ
る事、石段の真ん中辺りから、視界が良ければ遠く淡路島も見える事等、諸々のお話を聞
く。最後に住職お手製の地図まで頂いた。(末尾の写真参照)

 テーブルをお借りして小休止。一息ついた所で鞍部へ出て、本滝寺方面へ向かう参道を
降る。

 植林帯の中、ここにもジュウニヒトエが咲いているなと眺めた瞬間である。サーッと音
がしたのでその辺りに目をやると、落ち葉の中になんと鎌首をもたげた蛇。マムシのよう
だ。チロチロ舌を出してこちらの動きを伺っている気配。仕様がないので石を拾って道を
開けてくれるように仕向けようやく退散願った。危ないところであった。ほっと溜め息。

 降るに従って、右は沢から谷となり、幾つか堰堤が現れる。タニウツギのピンクの花が
満開。林道に合流して右に折れると、今谷池の青い水面。更に進むと犬の鳴き声が大きく
なってきた。住職の地図にある犬の家らしい。舗装林道に合流し、橋を渡って右に折れる。

 左はしばらくフェンスが続き犬が覗く。そこを過ぎると、左が開けて棚田と野間大原の
集落。単調な林道歩きだが、ワラビが道端に生えているのを発見、摘みながらブラブラと
歩いていく。前方に現れた低い山を越えてジグザグ道を降る。布留林道開通記念と彫られ
た碑を過ぎると地黄の集落となり、民家の間を縫うように進んでいくと、程なくR477
に合流した。

 目の前に野間神社の石の鳥居が建っている。社叢も近いので、ついでに野間神社に寄っ
ていくことにした。

 野間神社は付近一帯の郷社で、境内は小振りに過ぎないが、由緒は古い。推古天皇の御
代というからザッと1400年前に遡る。天理の布留、石上神社から勧請された延喜式内
社だという。これで先程の林道の名前が布留とあったわけが分かる。能勢頼次が帰依した
頃は社運盛んであったろうが、今では寂れて社務所も閉じられ、常住の祢宜もいないよう
であった。

 R477へ戻って北へ向かう。警察署前を過ぎて右手の中学校の校庭には立派な石垣。
それもそのはず、地黄城の石垣だったのだ。元和年間。関ヶ原の戦いに功を立てた能勢頼
次が1万石で旧領を回復し、ここ地黄に陣屋を構えたと説明板にあった。

 校庭に上ってみれば往事を偲ぶべく、大きなケヤキの木と石碑が立っていた。

能勢頼次が元和年間に築城した地黄城址
今は中学校の運動場です

 近くの地ビールの店は築100年の明治期の建物。奥の院参道向かいのよろず屋の軒先
には京バス「奥の院前」と書かれた古い停留所板が懸かっているのを発見。しかしデジカ
メの電池切れ。しかも予備を忘れた。残念。(^^;

 ちょっとレトロな感じに懐かしみを覚えながら、駐車地へ戻る。ブラッと歩いた妙見奥
の院周辺山歩。大阪にも懐かしい風景がまだ残っていました。


*1....尾根筋に付けられた道で、堀越峠からの林道に合流するそうです。
*2....戦時中の監視哨とのことで、村人が交代で詰めていたそうだと、これも住職さん
    からの情報です。尚、慶佐次盛一氏の「北摂の山々」では給水タンクとなってい
    ます。


【参考】妙見奥ノ院で頂いた住職お手製の案内地図



【タイムチャート】
12:50自宅発
14:05〜14:10奥ノ院バス停横(駐車地 Ca250m)
14:50妙見奥ノ院前
14:53鞍部
15:00〜15:03点名『奥ノ院』(540.8m 四等三角点)
15:09鞍部
15:13〜15:40妙見奥ノ院
16:10布留林道出合
16:32 R477出合(野間神社鳥居前)
〜野間神社、地黄城址を散策〜
16:15奥ノ院バス停横(駐車地 Ca250m)



点名『奥ノ院』のデータ
【所在地】 大阪府豊能郡能勢町
【標高】  540.8m(四等三角点)
【備考】  妙見奥ノ院の東南東にあるピークです。雑木で展望はあ
      りません。三角点横に戦争中に造られたトーチカ風の監
      視所跡があり、見張りの為、村人が交代で詰めていたと
      のことです。
【参考】  2.5万図『妙見山』



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