小春日和に三岳山

平成13年11月24日(土)
天候: 快晴
同行: 単独
三岳山登山道横に佇む六丁石仏。不思議に
そこだけ光が当たっていました


 毎年恒例、但馬への職場のメンバとの蟹ツアー。その蟹を堪能した帰りに、何処か山へ
寄って行こうと思い立った。しかし、問題は行き先。但馬をテリトリとするTさんのご紹
介などもあったが、結局、前々から頭に浮かんでいた三岳山に落ち着く。

 三岳山は福知山の北部に蟠る三角錐の秀麗な山。ナカニシヤから出ている「京都丹波の
山」にも雲海が見られる山として紹介されている。が、意外にマイナーな山である。源頼
光が大江山の鬼退治の時に「見立て」をした山であり、標高も大江山より高いのだが、人
口に膾炙する度合いは較ぶべくもない。篠山の多紀アルプスの盟主三岳に間違えられるほ
ど。しかしながら、昔は「御嶽」とも呼ばれた修験の山。役行者が開創したという蔵王権
現を祀る寺が有ったといい、近年まで女人禁制であったともいう。そんな歴史が興味深い
山でもある。

 宿を出て南下する。数日来の小春日和。放射冷却と無風の環境に、八鹿、出石は濃霧。
太陽はまるでスモッグの下から眺める様に丸い輪郭を現し、全く眩しくない。稲が刈り取
られた水田や川からは盛んに水蒸気が立ち上っている。R426に入り、但東町を抜けて
丹但国境を越えると福知山市である。三岳バスの三岳農協前のバス停近くに「三岳青少年
山の家」の標識がある。それに従って左折(東)する。狭い道だろうと覚悟していたのだ
が、案に相違して、羊腸ではあるものの二車線のいい道であった。

 喜多の集落に出る。2台の車が止まっており、三脚とカメラを持ったおじさんがいたの
で声を掛けると、雲海を撮っていたとのこと。指さす方向に視線を向けると、東側が開け
てなんとまあ素晴らしい雲海。山の頂が島の如く雲のまにまに浮かんでいるのだ。何とも
幻想的な風景である。しばし見とれる。

雲一つない快晴の下、喜多集落から東方向に見る大雲海

 山の家はそこから坂を登った所。建物の横に車を置く。準備をしていると男性2人組が
カメラ片手に降りてきた。
「こんちは、登ってきたんですか?」
「いや、そこの寺まで。今から登るの?この辺、熊が出るんで新聞にもよく出るとこなん
よ」
「へぇー!?」
「熊は今時分、一番、餌漁る時期や。鹿も増えてるしね。でも鈴鳴らして行ったら大丈夫
ちゃうかなぁ。まあ気ぃつけて」
脅しとも慰めともつかぬ言葉に、最近、氷上の方でも熊が出るというのを思い出した。少
しびびる。
 
 何はさておき、まず取り付きである。真言宗の金光寺の境内の坂を登って行く。登山道
の取り付きには石仏が有るとの情報を得ていたから、本殿の奧の林の中を探すもそれらし
いものがない。飼い犬の大きな土佐犬には吠えられるしで、ほうほうの体で元へとって返
す。すると、樹齢2百年は経ているらしい太いタブノキの横に廃屋があり、その上側を抜
ける階段。辿っていくと歴代住職の無縫塔が並ぶ小さな墓地に出て、クマザサの茂る中に
道が見つかった。入口に石仏があるか確認の為、下るとまた小さな墓地があって、一丁と
彫られた石仏が木の下にひっそりと佇んでいた。これで一安心。(その先に石の鳥居あり)

 雑木と杉林のはざまに、クマザサの茂る深くえぐれた道が続く。落ち葉で地面が見えな
い。その間にも、僅かな風にも逆らわず、はらはらと黄色い葉が舞い落ちる。

 福知山市のコンクリート製の貯水糟を過ぎると、道は杉林に吸い込まれていく。昔は良
く歩かれた道のようで、人々の足で穿たれてU字状を示し、途中では軽四輪が通れる程の
作業道になる。が、そこそこの傾斜があるので、酒が残った体には少々きつく暑い。汗が
容赦なく額を伝う。七丁仏の所で一服。タオルを出して拭うが、すぐ吹き出してくる。
 
 よく手入れされた杉林は下生えも無く清々しい。コツコツと何かが木を叩く音。キツツ
キだろうか。耳を澄ますと何も聞こえず、キーンと耳が鳴る音。
 
 直ぐに小さな534mのコルへ出る。下山後読んだガイド本には野際へ降りる道がある
と書かれてあったが、全く気づかなかった。

 小さな尾根を一旦巻いた後、それに乗って尾根を緩やかに登っていく。十丁仏を見て間
もなく、杉林が途切れて、周りはトンネルを抜け出した様に明るい雑木林である。以前は
全山こんなだったろうなぁ。カエデはまだ赤い葉を枝につけているが、ほとんどの木は葉
を落としていて、快晴の空からの陽光が眩しい。道には夥しい枯葉。

十丁の石仏を過ぎると青空の下、気持ちよい雑木林に

 やがて道は狭まって、山腹を左からへつる感じとなる。南側の視界が初めて広がって、
眼下に集落が見えるようになる。仏坂(ぶっさか)だろうか?とすれば、三角錐の綺麗な
山は伏見山(ぶくみやま)なのだろうか?うーん、良く分からない。

 結局、石仏は十七丁まであった。再び人工林になると右前方に石の鳥居が見えてきて、
その手前に道標が現れた。左「ケヤキの大木」右「山の家」。左は野際からの登路であろ
う。

 鳥居を抜ける。赤い屋根の三岳神社の社が石段の上に。大きなイチョウの木があって、
石段や社の前の広場はさながら黄色い絨毯であった。

 左に行者神社への道標があるが、ほとんど忘れられた存在でヤブ化している。社の右手
に小さな手製の道標には山頂を示す文字。それを確認していた時である。何かが近づく気
配。
「ん?。すわっクマかぁ?」といぶかしんでいると、残念ながら?単独小父さんが降りて
きた。内心「ほっ。」
今日最初で最後の同好者であった。挨拶を交わす。山頂には誰もいないこと。ちょっと足
元が悪いが登山路は北へ真っ直ぐなどと情報を頂く。

 小父さんと別れて山頂への踏み跡を行く。しかし、これが半端な登りではない。桧林の
中の最初はゴロ石が転がるえぐれた小沢の様。そしてそれもなくなって幹に掴まりながら
の急登となる。右手は雑木とササのブッシュ。

 立ち止まって息を整える回数が増える。一旦、緩んだ傾斜が再び急になった後、ようや
く上方が明るくなって、山頂に近づいたことを示す。更に巨大な関電の無線反射板が視界
に入り、南北に細長い三岳山の山頂に到着。

三岳山山頂の五輪塔。奥の院の名残か

 山頂中央は切り開かれているが、周囲はクマザサと桧などの立木で展望がない。三等三
角点の南側に蔵王権現の奥の院の名残か、五輪塔がポツンと一基。何時の時代のものか、
素人の小生には分からない。北側の関電の反射板へ行ってみる。ここだけが北に開けてい
る。大江山や磯砂山、高竜寺ヶ岳などが見えるはずなのだが、ほとんど山の名前は分から
ない。唯一、確実なのは北西方向、電波塔のある登尾(とび)。奥に見える大きな山並は
西床尾山と東床尾山であろう。雲海は無くなり代わって薄紫の霞がたなびき、残念ながら
海までは見えなかった。
山頂から北西方面を見る。手前のアンテナのある山は
登尾(とび)。奧に床尾連山が霞む

 誰も上がってくる気配はない。ミカンと赤飯の握り、海苔巻きを2、3つまむ。雲一つ
ない高い空をトビが輪を描いている。ぽかぽかと眠くなる日溜まりである。

 地形図にあるように三岳山の山頂部は北東に稜線を伸ばしている。クマザサの切り開き
と荒れた伐採地の奥に、植林に覆われた次の峰が見えている。少し辿ったがテープは確認
できなかった。下山後気づいたのだが、金光寺に福知山市の青少年体育協会か何かの団体
が設置した、坂越峠を越えて天が峰方面への縦走路についての説明板があった。

 20分ほど山頂にいてピストン。下山して墓地を抜け、廃屋の横を通って降りていくと、
地元の方であろう初老のご夫婦が花を摘んでおり、目敏く小生を認めて
「登って来なさったのかい?」と問う。
「そうです。」
「クマは居なかったかいな?」
やっぱりクマか。でも幸か不幸か遭遇しなかった旨告げると、
「この辺は山菜が多うて。この寺も昔は立派やったが、先々代の住職が博打で...。」
と地元の話をしてくれた。

 すっかり雲海は晴れている。山の家の裏に紅葉したカエデがあったので、山の家の軒先
を借り、座り込んで湯を湧かす。コーヒーをすすりながら東方向を眺める。悲しいかな、
こちらも全く山名は分からなかった。

 暫くその辺りを散策してみる。金光寺の下は広場。点名「一の宮」の円いピークが頭を
出している。神社があって、その社殿の南側に石塔や石仏が並ぶ。なんとその中に十八丁
と彫られた石仏があった。上から下ろしてきたのだろうか?

 長屋門のような質素な山門がある。仁王さんが立っているはずの両側の部屋は板で仕切
られて中は見えない。これも地元の人が話していた事と関係があるのだろうか?その山門
を潜って石段を登れば、山の家の横に戻る。隣では福知山市の施設の新築工事が行われて
いた。

 小春日和に恵まれた1日。期待してもいなかった雲海も見物出来て、予想外に収穫の多
い半日であった。農家の軒先の干し柿を眺めながら帰途につく。それにしても日本には山
が多いなぁ。



【タイムチャート】
10:35〜10:45三岳青少年山の家(駐車地)(Ca350m)
10:45〜11:00金光寺境内うろうろ
11:12七丁仏
11:20534mコル
11:35野際登山道出合
11:40〜11:45三岳神社
12:00〜12:15三岳山(839.2m 三等三角点)
12:26三岳神社
13:00金光寺



三岳山のデータ
【所在地】京都府福知山市
【標高】839.2m(三等三角点)
【備考】 福知山市街の北方に大きな三角錐の山容を示す山で、源
頼光が大江山の鬼退治の際、「見立て」した山とも云わ
れ、近辺の最高峰ですが、大江山の名に隠れた不遇の山
です。昔は修験の山で、中腹に大化年間に役行者が開い
たといわれる蔵王権現があり、頂上に奥の院があったと
いわれています。
【参考】2.5万図『三岳山』



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